尾張 生羅A

 今は一体何時なのだろうか。外はすっかり暗くなっていたが、部屋の照明を点ける気力もなく、生羅はリビングのソファに横たわっていた。 自分の身に起きていることは理解出来ていた。しかし、それをどう受け入れれば良いのか。感情が追い付かず、もはや涙を流すことさえ出来ない。はっきりと言えることは、自分にとって何よりも大切だったものは2度と帰ってこないということだけだった。

「消して」

生羅は暗闇の中で1人呟く。

「私を消して、五味君」

 返事はない。聞こえるのは静かな雨音だけだった。どうして、どうしてこんなことになってしまったのか。生羅は静かに目を瞑り、先程までのことを回想する。

 


「それじゃあ、私たちは失礼するわ。健闘を祈ってるわね、尾張生羅さん」

 室岡が玄関で微笑むが、隣の前山の表情は固い。生羅にはこの2人の関係性がよく分からなかったが、前山香苗という女性は室岡に何らかの形…恐らく暴力で支配されていることは何となく分かっていた。今は化粧で隠しているようだが、初めて会った時には痛々しい青痣が顔面の数ヵ所に見てとれたことも覚えていた。少なくとも、大学の同じサークルに所属している仲良しな先輩後輩の関係ではないことは明白であった。

「あの、前山さんを部屋まで送らせて下さい」

 生羅の言葉に、前山の体が一瞬硬直するのが分かった。

「彼女は大丈夫よ。もう目が見えなくなって長いから、私の助けだっていらないくらいなの」

 室岡の言葉を聞き流し、生羅は慌てて靴を履くと、前山の目の前に右腕を差し出す。

「左手を伸ばして、私の腕に掴まって」

 短い沈黙の後に、前山は生羅の腕を掴んだ。

「あらあら、1人で歩けるくせに甘えちゃって。まぁ、いいわ。それじゃあ、私たちの部屋までお願いするわ。階数は4階だから、エレベーターを使いましょう」

 室岡がいかにも面白くなさそうな顔をする。やはり、何か裏がある。生羅はそう確信しながら玄関の扉を開けると、雨が降り始めていることに気付いた。エレベーターホールまでの長い外廊下を室岡が先頭に立って歩く。生羅には、彼女の足取りが心なしか軽いようにも思えた。まるで今の状況を楽しんでいるかのように。

「雨、ところにより歩く死体。今夜の天気予報はそんな感じかしらね」

 面白くない冗談だ、と生羅は思った。その歩く死体によって、仲間たちは次々と失踪しているのだから。それもただの失踪ではない。他の人の記憶からも完全に消された存在…言うなれば“忘れびと”になってしまったのだ。

「止まって。何かがおかしい」

 生羅の腕を掴む前山が小声で言う。生羅は言われた通り、その場で足を止めるが、エレベーターの前に到着した室岡には前山の声が聞こえなかったのか、既に呼び出し釦を押していた。

「やっぱりそうだ。そこから動かないで」

 生羅の右腕が痛いくらいにギュッと握られる。何が何だか分からなかったが、前山にとって予想外のことが起きていることは確かだった。

「あなたたち、どうかしたの?」

 エレベーターを待つ室岡がこちらを振り返る。その時、生羅には見えていた。室岡の背後に到着したエレベーターのカゴ内に乗っていた3人の男の姿を。飲み会で失踪した剣道部顧問の内山田。その次に姿を消した伊口。そして、みんなにメールを送った直後に居なくなったリーダーの喜多村。その3人が生きた人間でないことは、遠目からでも容易に分かった。
 絶句する生羅の顔に何かを察した室岡がエレベーターへと向き直る

「ど、どういうことなの?前山さん!?」

 静かにエレベーターから後ずさる室岡。彼女の話では、歩く死体は五味が生前に恨みを持つ人物にしか見えない筈では無かったのか。ところが、今の室岡は明らかに目の前の脅威に怯えていた。
 エレベーターのドアが開くと同時に、3体の死者は前方に倒れこむようにして室岡に襲い掛かった。

「走るのよ。早く!」

 前山が叫ぶ。先程までは前山に自分の腕を掴ませていた生羅だったが、今度は彼女の腕を強引に掴んでエレベーターとは逆方向に走り出した。

「走るって何処に!?」

 前山を引っ張りながら外廊下を走る生羅がパニックになりながら叫ぶ。

「ゆっくりしている暇はないの。とりあえず非常階段へ行って」

 言われた通り、自分の部屋を通りすぎ、突き当たりにある非常階段に到着する。しかし、ここは9階だ。目の不自由な前山を連れて1階まで降りるのは容易では無かった。

「骨刀を貸して」

 前山が息を切らしながら言う。

「どうするの?」

「私があいつらを始末するから。あなたは旦那さんのところへ」

「浩輔?浩輔だったら、今ごろ保育園に」

「落ち着いて聞いて。あなたの部屋で五味の話を聞いた時、私を目掛けて近付いてくる特殊餓鬼の微弱な反応を感知した」

 前山がサングラスを外し、投げ捨てる。白濁とした目が、真っ直ぐに生羅の瞳を捉えた。

「最初は勘違いかと思ったけれど、これで確信に変わった。最初、特殊餓鬼はあなただけを狙っていた。でも、あなたの話を聞いた途端に攻撃対象が急に増えたの。どういうことだか分かる?あなたの話を聞いた者は、その瞬間から関係者になって、五味のターゲットになるのよ。つまり」

 生羅は全身の血の気が失せていくのを感じた。確かに、自分は室岡と前山に全てを打ち明けた。しかし、あの時もう1人隣室に居たのだ。リビングと彼がいた寝室は襖で区切られているだけだ。もし、浩輔が起きていたのなら、自分の話を全て聞いていたことになる。

「早く骨刀を」

 生羅は震える手で前山に骨刀を渡す。

「あなたは大丈夫なの!?」

 外廊下の向こうから、3体の死者がヨタヨタと歩を進めていた。室岡の姿は見えない。うまく逃げおおせたのか、それとも今までの犠牲者のように消失してしまったのか、そのどちらかだろう。

「大丈夫…じゃないかもしれないけど、榊さんとの約束なの。心配しないで。本気になった女子大生は怖いんだから」

 初めて見せる前山の笑顔は、どこか憂いを帯びているようにも感じた。

「さあ、もう行って!」

 前山に肩を押され、生羅は非常階段を駆け降りていく。保育園は近くだ。ここから走っていけば、5分も掛からないだろう。雨はどんどん強くなっていく。1階に到着し、マンション前を傘もささずに走る生羅を通行人が物珍しそうに見ているのが分かった。
 お願い、どうか浩輔には手を出さないで。目的は私たちに対する復讐の筈でしょ?無関係な人を巻き込まないで。
 そう願いながら、生羅は全力で足を動かした。腐っても元運動部だ。体力には自信があった。
 ずぶ濡れになりながら保育園の前に辿り着くと、既に我が子を迎えに来ている保護者の姿が多く見られた。見たところ、浩輔はどこにも居ない。確か、買い物に行ってから保育園に行くと言っていたが、お迎えの時間に指定している17時はもう間もなくなので、彼の性格から言っても保育園にいることは確実だ。
 生羅は門をくぐり、娘の結依菜がいる教室へと向かった。入り口のガラス戸を横にスライドさせて開けると、すぐに担当の保育士が掛け寄ってくる。結依菜が一番気に入っている、いつも愛想の良い、笑顔の素敵な女性だった。

「あの、うちの旦那が結依菜を迎えに来ませんでしたか」

 保育士は怪訝そうな顔で生羅を見る。無理もない。頭からバケツで水を被ったかのようにずぶ濡れなのだから。

「えと、すみません。お子さんの名前をもう一度」

「結依菜です。ひかり組の尾張結依菜。旦那が迎えに来ませんでしたか?!」

 感情が表に出てしまい、つい大声になってしまった。お迎えを待つ子供たちの視線が一斉に生羅に注がれる。

「うちのクラスでは…ゆいなちゃん、という子供はいませんね」

 その瞬間、生羅の頭は真っ白になった。一体、一体この先生は何を言っているのだ。今朝、この場所で、自分は結依菜を、確かに預けたではないか。 

「そ、そんな筈ないじゃないですか」

 生羅は土足のまま教室に上がり込む。結依菜と仲の良い女児を見つけるやいなや、生羅はしゃがみこみ、彼女の両肩を掴む。

「ねえ、みゆきちゃん、結依菜はどこ?今日も一緒に遊んだんでしょう?!」

「ちょ、ちょっと、何をしてるんですか!」

 男性の保育士が遠くから駆け寄り、突然のことで大泣きする女児から生羅を引き剥がす。

「まさか…」

 生羅は我に返り、 男性保育士の手を振り払うと、教室から外に飛び出す。いつも結依菜の小さな靴が収まっている下駄箱には全く別の児童の名前が書いてあった。

「そんな、嘘でしょ…」

 校庭を歩き門を抜け、ポケットにあるスマホを取り出す。震える手で電話帳をタップし、浩輔の連絡先を探す。しかし、どこにも無い。発着信の履歴を辿ってみても、彼の電話番号はどこにも見つからず、生羅は愕然とする。
 浩輔は消された。そして、それがどんな結果をもたらしたか。浩輔が最初から存在しなかったということは、娘の結依菜の存在さえも“無かったこと”になるのだ。
 全身の力が抜け、生羅は保育園の門を背にして濡れた歩道にへたり込む。目の前の道路には車が忙しなく行き交っている。しかし、生羅の視線はその先にいる者を確かに捉えていた。道路を挟んだ向う側の歩道に立ち尽くす巨漢の人物。忘れもしない、五味だ。彼はニタニタとした笑みをたたえながら、何をするわけでもなくそこにいた。右手に持っている物を見せびらかすように、ゆっくりと前方に持ち上げる。それが浩輔の生首であることに気付いた生羅は、恐怖と嗚咽、そして怒号の入り交じった絶叫をあげた。  

 

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