尾張 生羅@

 居間のカーテンを開けると、眩しい朝日が生羅の重い瞼を容赦なく襲う。昨日の夜に降り注いだ豪雨が嘘のように、空はすっきりと晴れっていたが、生羅の気分は鉛のように重かった。軽い二日酔いであるということも大きな理由のひとつであったが、昨夜に突然失踪した内山田のことや、その直後に確かに聞こえた地響きのような呻き声のことが生羅の心に蟠りを残していた。
 そんな生羅の心境などつゆ知らず、身支度を終えた夫の浩輔が自室から出てくるのが見えた。もう、そんな時間なのかと思い、生羅は仕事へと向かう浩輔を見送るために玄関へと向かう。

「ごめん。お弁当、作れなかった」

 生羅は申し訳無さそうに言うと、浩輔は優しい笑顔で首を横に振る。

「いや、別に構わないよ。せっかくの休みなんだから、ゆっくり寝て疲れをとらないとね」

 浩輔がそう言い終えた直後、寝室から泣き声が響いた。娘の結依菜が起きたのだろう。
 生羅はオーバーなリアクションで肩をすくめて見せると、浩輔は思わず苦笑いを漏らした。

「ゆっくり寝てるわけにもいかないみたいだね。じゃあ、行ってくるよ」

 毎朝恒例の口づけを交わし、見送りを終えた生羅はすぐに寝室へと戻ると、不機嫌そうに泣いている結依菜を抱っこする。ベランダに出て眼下を見下ろすと、マンションから出て駆け足気味に駅へと向かう浩輔の姿が見えた。寝ぼけ眼の結依菜もそれに気付いたのか、必死に指を差して「パパ、お仕事だね」と可愛らしい声で何度も連呼している。
 何ひとつ不自然なことなど無い、平和な朝の光景だった。生羅は、昨晩のことをいつまでも気にしている自分が何だか馬鹿らしくなるのを感じ、まずは洗濯を済ましてしまおうと部屋に戻る。予報によれば、今日から数日間は晴天が続くとのことだ。保育園も休ませたので、今日は結依菜を連れて近くの公園を散歩に行くのも良いかもしれない。素敵な一日の始まりを予感し、生羅の胸中は自然と穏やかになっていった。

 

 腕の中で、結依菜がすやすやと眠っている。保育園でのトレーニングの成果なのだろうか、最近は昼食を済ませると、多少のぐずりはあれど、比較的スムーズにお昼寝に入ってくれるので、生羅の負担はだいぶ減っていた。しかし、子供の成長は早いものだと生羅はしみじみ実感する。こうして抱っこをしていても、少し前までは感じられなかった、1人の人間を抱え持っているという、ずっしりとした重量感がある。手足もあっと言う間に長くなり、顔立ちだって1年前に撮った写真と見比べてもまるで別人のようにはっきりとしたものになり、今はまるで市松人形のように…。
 そこで生羅は絶句した。自分に抱きついているのは結依菜では無い。これは、高校時代の望美だ。望美は生羅の腕の中で泣きじゃくり、大きく震えていた。バケツをひっくり返したような雨が容赦なく降り注いでいる。何故、こんな豪雨の中で傘も差さずに望美と2人で抱き合っているのだろうか。

「おい、悪かった、悪かったってば!なぁ、頼むよ、お願いだから許してくれよぉ!」

 激しい雨音に混ざり、男の悲痛な声が聞こえた。生羅の前方で、肥満体の男が地面に膝まずき、ぐったりとしている。五味だ。そして、それを取り囲む4人の男たち…。
 それは、紛れもなくあの夜の忌まわしい記憶の追体験に他ならなかった。

「…お前ら、道場から木刀を持ってこい。1人、1本だ」

 取り囲んでいた男の1人、内山田が3人の男子に命じる。

「え、いや、でもそれはさすがに…」

 主将の喜多村が困惑していると、内山田がすかさず「いいから持ってこい!」と檄を飛ばす。3人の男子は慌てて生羅たちの横を通り過ぎ、道場へと向かっていった。その場に残された生羅は、ただ震える望美を抱きしめることしか出来なかった。

「おい、何をボサっとしている」

 今まで見たこともない、阿修羅の如き形相をした内山田が生羅に言う。

「お前もだ。早く道場から木刀を持ってこい」
 
 駄目だ。これ以上、続きを見たくない。早く、この悪夢から醒めなければ。生羅がそう思ったその時、どこからともなく軽快なメロディーが聞こえ、生羅は目を覚ました。
 どうやら寝室の布団で、結依菜を抱きしめたまま眠ってしまっていたらしい。枕元では、生羅のスマートフォンの着信音が鳴り続けており、ディスプレイには望美の名前が表示されていた。このままでは結依菜が起きてしまうと思い、生羅はすぐにスマートフォンの保留ボタンをタップすると、そっと起きあがって寝室からリビングへ移動し、寝室の襖を静かに閉めながら通話ボタンをタップした。

「ごめん望美、今ちょっと娘とお昼寝しちゃってて」

「ううん、こっちこそごめんね。急に電話なんかしちゃって」

 気のせいか、望美の声がとても落ち込んでいるように感じ、生羅は二日酔いがそんなに酷いのかと尋ねると、望美は「そんなに弱くないもん」と少しムキになる。

「ただ、悪い夢を見ちゃったから寝覚めはサイアク。昨日、あんなことを思い出しちゃったからだと思うけど」

 望美の言葉に、生羅はぎょっとする。それは、恐らく五味に関する内容だったのだろうか。だとしたら、先程まで生羅が見ていた夢と同じものだ。

「そんなことより生羅、ちょっと確認したいことがあるんだけど、高校の卒業アルバムって今そこにある?」

 確か、結婚2年目に実家から送られてきた荷物の中にあったはずだと思い、生羅はリビングから廊下を通って自室へと移動する。本棚の隅に卒業アルバムがいくつも並べてあるのをすぐに発見し、その中から笠内高校のものを取り出す。

「あったけど、これがどうかしたの?」

「部活動のページがあるでしょ?ちょっと見て欲しいんだけど」

 望美に言われるがまま、アルバムをぱらぱらとめくり、部活動紹介のページに辿り着くと、生羅はすぐに違和感を覚えた。剣道部の写真。後輩の1、2年生が直立で整列している前で、生羅たち3年生が顧問を中央に挟み、正座で並んでいる。よくある構図の写真であるが、中央にいる顧問は内山田では無く、別の男性であった。生羅はこの男性を何処かで見た記憶があると思い、名前が大きく刺繍されている“垂れ”と呼ばれている防具の部分に注目する。「塩崎」と書かれているのを見て、生羅はこの男性が体育教師の1人であったことを思い出した。

「ねえ生羅、気付いた?うちの部活って、途中で顧問が代わったりとかしてないよね?」

「そんなことがあったら絶対覚えてる筈だよ!それに、塩崎先生って確か柔道部の顧問だったはずでしょ?」

「アルバムをよく見て。柔道部の写真にも塩崎先生が写ってるから」

 言われた通り、生羅は柔道部の写真に視線を移すと、確かにそこにも塩崎が写っていた。ということは、彼は2つの部活動の顧問を兼任していたということになる。一体、何故こんなことになっているのだろうか。そこで生羅は教員紹介のページを確認するためにページを何枚かめくる。しかし、並んだ教員の中に内山田の姿はどこにも無かった。

「…ねえ、生羅。内山田先生って、本当にいたの?」

 望美の言葉に生羅が呆然としていたその時、遠くで結依菜の泣き声が聞こえていることに気が付いた。

「ごめん望美、娘が起きちゃった。また後で連絡するね」

 生羅は半ば一方的に電話を切ると、さながらこの世の終わりかのような泣き声を上げている結依菜の元へと向かった。起きたら隣にいたはずの母親がどこにも居なかったのだから、それも至極当然だろうと生羅は自責の念に駆られ、顔を真っ赤にして泣きじゃくる結依菜を力いっぱい抱きしめる。

「ごめんね。ママ、お友達とお話してたから」

 結依菜に詫びの言葉を口にしながらも、生羅は部屋の置き時計に目をやった。もうすぐ15時になる。そろそろ買い物がてらに外を散歩に行くのも良い時間であった。

「お着替えして公園に行こうか」

 生羅の言葉に、結依菜は満面の笑みを浮かべる。今泣いた烏がもう笑うとはよく言ったものだと、生羅も一緒になって笑った。しかし、やはり心の奥底には蟠りが残っていた。
 内山田剛は、確実に剣道部の顧問を3年間務めていた。それだけは絶対に揺るぎのない事実であったし、昨晩だってあの場にいたのを生羅を含む剣道部のメンバー全員が見ていた筈だ。
 たが、今のこの状況を考えると、まるで内山田剛という人間は最初から存在すらしていなかったかのように、事実が書き換えられているように生羅は思えた。そう、何者かの手によって、事実は大きく、しかし矛盾の無きよう捻じ曲げられたのだ。
 …自分たちが五味のことを記憶の闇に葬ったことと同じだ、と生羅は思った。同窓会の誘いもかけず、自分たちは彼が最初から剣道部に居なかったかのように飲み会を楽しんでいた。おまけに、五味は津波に飲まれて死んだ可能性があるのに、誰も彼の安否など気にしてはいなかった。もしかして、今この状況を作り出している者の正体は…

「おさんぽ、まだ?」

 結依菜が退屈そうな顔で玄関に立ち尽くしていた。いつの間にか自分で靴まで履いていたらしく、準備万端といった感じである。

「ごめん、今行くから」

 生羅は自分のあまりに馬鹿らしい推測を振り払い、玄関へと向かった。

 

 1階に到着したエレベーターのドアが開くと結依菜は真っ先に飛び出し、出入り口へと続くロビーを元気よく走って行った。賃貸の物件ではあるが、生羅はこのマンションが気に入っていた。築年数が新しいということもあって建物の外観や内装が綺麗であったし、駅まで歩いても5分程度だ。そして、何よりも子供の散歩に最適な自然豊かな公園が、すぐ目の前にあるというのが大きな魅力でもあった。
 出入り口の両開き扉を上手く開けられずに立ち往生している結依菜を微笑ましく思いながらエントランスの方へと進んでいくと、ロビーに設置されているソファーに白のワンピースに麦わら帽子を被った女性が腰を掛けているのが見えた。恐らく、入居者同士の交流や、外部から来た客人との接待用に設置してあるものなのだろうが、生羅の知る限りではこのソファに座っている人間は入居してから見たことが無かった。小さな円形のテーブルを挟んだ向かい側のソファーには誰も座っておらず、女性は1人だ。
 一体、ここで何をしているのだろうか。もしかしたら、このマンションに住む彼氏との待ち合わせでもしているのかもしれないと生羅は思い、多少の興味もあってか、その横を通り過ぎる時に歩を緩め、さりげなく女性の顔を確認する。後ろ姿だけでは気が付かなかったが、女性はサングラスを掛けており、手には視覚障害者の人が持つ白杖が握られていた。年齢は、生羅よりもずっと下のように見える。

「止まって」

 いきなり女性に声を掛けられ、生羅はどきりとしながらも足を止めた。女性は静かにソファーから立ち上がり、サングラスを外す。白く濁った瞳が、そこにはあった。
 生羅は自分が勤める総合病院でも同じ症状の患者を何人か見たことがあった。恐らく白内障と呼ばれる目の疾患だろう。だが、それよりも生羅の目を引いたのが、顔の至るところにある痛々しい青痣である。それは、転倒して出来たというよりは、明らかに何者かによって暴行を受けた際に負ったようにも見てとれた。
 女性は、生羅の頭から爪先までを、その白く濁った瞳で物色しているかのような動作で首を上下させた。薄気味悪さを感じた生羅が無言でその場を後にしようとしたその時、生羅の腕を女性が掴んだ。そして、白い瞳が生羅の目を真っ直ぐに捉える。

「死体に好かれている」

 女性がそう呟いた。そして生羅から手を離し、再びサングラスを掛けるとソファーに腰を下ろす。生羅が呆気に取られていると、痺れを切らしていた結依菜の急かす声が聞こえてきた。生羅は女性に軽く会釈をすると、足早に出入り口の方へと向かう。

「雨の降る日に注意して」

 背後から声を掛けられたが、生羅は立ち止まることなく、まるで逃げるかのように結依菜を連れてマンションを後にした。眩しい日差しが生羅たちを照らす。予報通りならば、今日から数日間は快晴が続くはずだ。一生、雨なんか降らなければ良いのに。生羅は雲ひとつ無い、澄んだ青空を見ながらそう思った。

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送