9時限目 〜超克〜

 まったく最悪の夜勤だ。柏木は寝不足からくる偏頭痛と戦いながら、ガラス扉に背をもたれさせた。そして、手に握った“ソレ”をまじまじと見つめる。黒光りする外観。サイズは小さいのにズシリとくる重量感。小さい頃、父親に縁日で買って貰った玩具とは大分印象が違っていた。これが拳銃…人の命を奪う物。
 10分程前、駒沢と榊は生徒らの担当教師と接触する為にA棟へと向かった。外には歩く死体が無数に居たが、榊が機転を利かして構内にあった拡声器で非常口側にヤツらを誘導し、手薄になった正面のガラス扉から難なく車に乗り込んだのだった。これも3年前とやらの経験の成せる業なのか。人生で2度もこんな荒唐無稽な騒動に巻き込まれるなんて、あの女子高生は余程死体に好かれているに違いないと柏木は思った。

「詠子、具合が思わしくないんです」

 突然話掛けられ、柏木は相手に悟られないように拳銃を背中に隠し、腰のベルトにそっと挟んだ。前山香苗。重傷を負った少女の親友ということらしい。

「今はとにかく駒沢さんを信じよう。解決策がきっとある筈だから」

 前山は何だか腑に落ちない表情で外を眺める。柏木も振り返り、ガラス扉を見つめた。誘導作戦により非常口側に集結していた死体どもは既に分散し、柏木たちの立っているガラス扉の向こう側に1体、2体と徐々に姿を現し始めていた。A棟に止まっている車が動き始めたら、再び連中を誘導する必要があるなと柏木は考えていた。

「詠子ちゃんも、親友のキミが側に居てくれた方が喜ぶと思うよ」

 もしかしたら駒沢は死体どもの餌になっているのではないか、という不安も柏木にはあったが、極力相手を安心させる表情で前山に優しく言う。

「でも、分かったんです。いざという時、私じゃ無理だって」

「無理?」

「守れないんです。私は所詮、女の子だから。世界がおかしくなってから、普段は見下してた男子に助けてもらってばっかりで」

 前山が自嘲気味に笑みを浮かべる。何だか落ち込んでいるようにも見える前山に、柏木はどう受け答えしていいのか暫く考えた後「もし男が妊娠したら出産の痛みに耐えきれずに死んじゃうらしいよ」と返答する。前山は吹き出しそうになるのを必死に堪えていたが、ついに耐えきれずお腹を押さえて笑いだしてしまった。柏木は何がおかしいのか全く分からず、しばしの間呆然とする。

「えと、柏木…さん、でしたっけ?」

「そうだけど」

「柏木さん、詠子のこと頼みます」

 笑い過ぎて涙が出ている前山が、何か吹っ切れたような表情で非常階段の方へと歩き出す。

「私、詠子を守る為に何か武器になるようなものを集めてきます。柏木さんも撃ったことの無い拳銃だけじゃ不安でしょ?」

 前山が階段を昇っていった。拳銃は見られていたのか。柏木は再びベルトから拳銃を抜き出し、それを見つめる。違う、これはあの少女を守る為の武器なんかじゃない。駒沢と榊がA棟へ出発するその時、柏木は今まさに車に乗り込もうとしている駒沢にそれを強制的に握らされた。柏木はその時のやり取りを回想する。

 

「待たせたな、柏木。“いざって時”だ。使い方は分かるな?」

 急に渡された拳銃に戸惑いながら、柏木はとぼけた顔で銃口を指さす。

「コッチから弾が出るんですよね?」

 駒沢は無表情で柏木から拳銃を奪い取り、カチッと小さい音と共に安全装置と思しきものを解除すると、再び柏木の手に拳銃を握らせる。

「これで弾が出る。あとは狙って引き金を引く。簡単だろ?」

「これでヤツらが侵入してきても安心出来ます」

「バカ。狙うのは外の連中じゃねえ、噛まれて怪我した姉ちゃんだ。いいか柏木、何か変化があったらすぐに姉ちゃんの頭を撃て」

 駒沢の言葉に柏木は絶句する。確かに、柏木が学生時代に没頭したオンラインゲームでは、敵キャラであるゾンビに噛まれた仲間は未知のウイルスに感染し、やがては敵と同じゾンビへと変異して一緒に行動してた仲間に襲い掛かってきた。だが、これはゲームなどでは無い。先程の眼鏡の少年の理論では無いが、ゲームや映画の法則がそのままこの世界に当てはまる保証など何処にも無いのである。

「何か確証でもあるんですか?」

「んなもんねえよ。ただな、悪い予感がするだけだ」

 駒沢は額にかいた汗を手の甲で拭う。

「受け取れません」

 柏木は拳銃を駒沢に差し出した。

「保険だよ、保険。もし銃が無かったら、お前さんはその警棒で姉ちゃんの頭蓋骨から脳髄がはみ出るまでブン殴り続けることになるぞ。それがお前に出来るのか?外の腐った連中と違って、新鮮な死体の頭を叩き割るのはラクじゃねえと思うがな」

 その言葉に戦慄を覚えた柏木は、黙って拳銃を腰のベルトに挟んだ。

「それでいい。じゃあな、行くぜ」

 駒沢はその言葉を最後に車へと乗り込み、A棟へと向かった。地獄からの生還者、自身が怪物と呼ぶ少女と共に。

 

 柏木は階段教室の入り口に通じる扉を開ける。中は広いホールのようになっていて、座席が後方に行くにつれて階段状に高くなっていく。まさにTVの学園ドラマなどでよく見る、いかにも大学の教室といった趣の場所であった。

「あれ、前山は何処ですか?」

 入り口近く、一番後方の席に座っている青年が柏木に話しかける。

「キミは確か…」

「磯部です」

 拳ひとつでヤツらの頭を粉砕してた男か、と柏木は思い出す。筋骨隆々とした体格から、何か格闘技をやっているであろうことは柏木にも容易に想像出来た。

「前山さんは武器になるような物を探しに行ったみたいだけど」

「アイツ、女なのに凄い男勝りで…ちょっとしたことで突然キレたりするんですよ。変なヤツでしょ?」

 こんな状況なのに1人で武器の調達に向かうとは確かに変わってるな、と思いつつ柏木は教室内を見渡す。同じゼミだと聞いていたが、学生たちは広い教室内に散らばって座っている。あまり仲が良くないのだろうか。教壇の上には毛布にくるまれた詠子、そのすぐ側で心配そうに座り込んでいる青年の姿もあった。

「あっちでノートPCをいじってるのが五木」

 磯部が一番左側の列の真ん中に座っている眼鏡をかけた青年を指さす。とても無線LANが繋がる状況とは思えないが、青年はしきりにキーボードを叩いているようだ。

「ホラー映画マニアなんですよ、アイツ。実は今の状況を楽しんでるんじゃないかな。何だか変わったヤツでしょ?それで、あっちで黙って座ってるのが雛菊」

 今度は右前方を指さす。ゴシックロリータとでも言うのだろうか。真っ黒なドレスのようなものを着た少女がそこに座っていた。

「アイツのことはサッパリ分かりませんが、見るからに変わったヤツでしょ?」

 変人だらけじゃないかと思いながら、柏木は教壇の方に目をやる。

「詠子ちゃんの側にいるのは?」

「竜崎。普段はチャラけたヤツですが、増渕のことが心配なんでしょうね。そうそう、増渕も都市伝説マニアでちょっと変わったヤツなんですよ」

 要するに奇人変人の集まりというワケか。柏木は納得すると、階段状の通路を下り教壇へと向かう。構内の保健室から持ってきた担架に寝かされた詠子は毛布を被り、紙のように白い顔を除かせて眠っていた。

「容態は?」

 柏木が訪ねると、竜崎は静かに首を横に振るう。

「静かに眠ってるけど、痛みのあまり気絶してるって言った方が正しいのかな。なあ、絶対助かるよな?」

「絶対助かるよ。腕の肉の一部を抉られたとはいえ、傷自体はそんなに深くない筈だから」

 そう言いつつも、柏木は毛布からはみ出ている詠子の腕を見て軽い衝撃を受けた。包帯はきつく巻いた筈なのに止血の効果が全く無く、白い布地の部分を残さず全てがドス黒く染まっている。もしかしたら、思ったよりも傷は深かったのかもしれないと思い、柏木は詠子の細い腕を軽く持ち上げる。

「包帯を取り替えるから手伝ってくれる?」

 竜崎は「お、おう」と短く返事をし、顔を赤く染める。熱でもあるのだろうか、と柏木は大真面目に竜崎の体調を心配した。

 

「全部食べなきゃ大きくなれないわよ、詠子ちゃん」

 女教師の声。ここは、かつて自分が通っていた小学校の教室だ。クラスメイトは全員給食を食べ終わり、彼らの視線は詠子と女教師に向けられている。机の上には、詠子が残したパンが銀色のトレイの上に乗せられている。日頃から小食の詠子にとって、給食を全て食べるということは苦行以外の何物でも無かった。いつもは友人の前山香苗が気を使って半分以上食べてくれていたが、珍しいことに今日の香苗は風邪をひいて休んでしまっているときている。

「本当に困ったわねえ。あなた、一口しか食べてないじゃない。この広い世界には、食べたくても食べられずに死んでしまっている子供だっているのよ?」

 この担任は、給食を残す生徒に関しては異常なまでに非難を浴びせてくることで有名だったが、食べ盛りの友人たちにとっては大した問題でも無かった。

「たったこれっぽっちのパンじゃないの。何がそんなに難しいの?あなた、もしかして学校にお菓子でも持ってきているんじゃないの?」

 そんなことするワケない!と反論しようとするが、女教師の氷のような表情に、詠子の体は蛇に睨まれた蛙の如く硬直する。同時に、クラスメイトのクスクスとした笑い声が聞こえてきた。

「全部食べるまで今日は帰れませんよ。ほら、食べなさい!」 

 詠子の口に無理矢理パンが押し込まれる。口の中の水分が小麦粉によって吸収され、詠子は苦しさのあまり吐き出そうとするが、女教師の手はそれを許さない。

「食えって言ってんのよ!よく噛んで飲み込みなさい!」

 女教師がヒステリックに叫び、片手で詠子の後頭部を支えると、強引にパンを喉元まで押し込んだ。ついに堪えきれなくなり、詠子の胃液が逆流する。女教師も異変を察知しとっさに手を離したが、詠子はトレイの上に胃液にまみれた“パンだったもの”を吐き出した。クラスメイトの侮蔑混じりの悲鳴と、吐瀉物が白いセーターの袖に飛散した女教師の小さな舌打ちが聞こえた。

「…最悪。買ったばかりのセーターなのに」

 悪意に満ちた女教師の眼が詠子を睨みつける。こんな先生、死んじゃえばいいのにと詠子は心から思った。この日を境に、詠子は家族以外の前では食事をすることが出来なくなったのだ。こんな先生は死ぬべきだ。死んで、地獄の業火に焼かれればいい。

 

「どうも様子がおかしい」

 柏木は異変に気付き、包帯を巻いている手を止める。詠子の身体が激しい痙攣を起こしていた。異常なまでに大きく見開かれた瞼から零れ落ちそうな眼球は、それぞれチグハグな方向に向いていた。ゆっくり、まるでスローモーションのように詠子が上体を起こす。だらしなく開けられた口元からは大量の涎が糸を引いて膝元の毛布にボタボタと垂れていた。

「え、詠子ちゃん、動いて大丈夫なのかよ?」

 竜崎が詠子の正面に回ってしゃがみ込み、彼女の両肩を掴む。不安に駆られた柏木が数歩下がってベルトの拳銃に手を掛けた時にはもう全てが遅かった。詠子の大きく開かれた口は竜崎の首筋に食らいつき、ブチブチと肉を引き千切る不快な音と竜崎の絶叫が階段教室に木霊となって響き渡った。
 蛇口を全開にしたような勢いで頸動脈から血を流す竜崎が這い蹲って逃げようとするが、その襟足…というよりも後頭部そのものを詠子が右手を延ばして鷲掴みにする。柏木は教壇から逃げるように降り、拳銃を抜いて座席と座席の間の通路を数歩後ずさった。

「竜崎!」

 席から立ち上がり、駆けつけようとする磯部と五木を柏木は片手を上げて制止する。雛菊も驚いた表情で立ち上がっているのが分かった。後頭部を鷲掴みにされている竜崎が口をパクパクさせ小刻みに震えていた。ミシミシと建物の軋むような不気味な音が聞こえた次の瞬間、竜崎の後頭部が頭蓋骨もろとも詠子の右手の中でグチャッと潰れた。そこにあった筈の後頭部から脳髄を滴らせ、眼を見開いたままの竜崎の亡骸が床に崩れ落ちる。
 その場にいたゼミメンバーはその光景に絶句し、硬直していた。怪物と化した詠子を始末する決意でいた柏木でさえも戦意を喪失し、思わず手に持つ拳銃で自分の頭を撃ち抜きたくなっていた。これは悪い夢だ。人間の頭を握り潰す程の握力を持った者など、この世の中に居るワケが無い。

「何があったの!?」

 階段教室の扉がバタンと開かれ、前山香苗が飛び込んでくる。

「み、見ちゃダメだ!」

 柏木が我に返って前山に叫ぶと、拳銃を構えて詠子を見据える。生ける屍となった彼女の右手には、竜崎の毛髪を生やした頭皮と砕けた頭蓋骨の欠片、そして掴み出された脳の一部である後頭葉がさながら握り飯のようにグチャグチャに混ざり合い、ドス黒い1つの塊となって握りしめられていた。

「詠子?」

 前山は詠子の変わり果てた姿を見て走り出し、拳銃を構えている柏木の横をすり抜け、教壇の詠子を庇うように両手を横に広げて柏木の前に立ちはだかった。

「どういうこと?詠子を殺すつもりなの?!」

「もう死んでるんだ。アレは君の友達なんかじゃない」

 詠子だったモノは両手を前に突きだし、おぼつかない足取りで教壇を降りた。背中を向けている前山との距離が少しずつ埋まっていく。

「詠子は…友達です。例えどんな姿になっても、私の大切な親友なの!」

 歩を進める詠子の屍。階段状になっている小さな段差に躓く度に、右手に握られた“竜崎の後頭部だった肉の塊”から滴る血液と細かい頭蓋骨の破片が床に飛散していた。もう限界だ。柏木は小さく舌打ちし、前山への警告の意味も含めて撃鉄を起こす。

「今までずっと一緒だった!だから…」

 何かを決心したかのように、前山の表情が変わるのが柏木には分かった。

「だから、最期は私の手で」

 前山が片手を伸ばす。それが何を意味しているか、柏木は瞬時に理解した。両手で構えていた拳銃を前山にそっと手渡す。駒沢から与えられた気の進まない役目をあっさりと女子生徒に託す自分に若干の情けなさを感じながら。

「引き金を引けば弾が」

「分かってる」

 前山は振り向き、かつての親友に銃を向けた。偶然なのだろうか、そのタイミングと同時に詠子が足を止めて教室にいた全員を見渡すように首を左右に往復させる。しばしの静止の後、肉の塊を掴む右の拳をゆっくりと口元に持っていき、指の隙間からはみ出ているプルプルとした竜崎の脳味噌をビデオのコマ送りのようなぎこちない動作で食い千切った。

「詠子、良かったね。ちゃんと食べれてるよ」

 柏木には理解の出来ない台詞を前山が呟く。彼女の眼は溢れんばかりの涙を浮かべていたが、その口元は相手を安心させるかのような優しい笑み。ドンッという鈍い音が階段教室に響き、詠子の頭部の上半分が血肉を撒き散らして弾け飛んだ。司令塔を失った詠子の身体が後方に倒れる。それを確認した前山はその場にへたり込み、声を上げて泣き出してしまった。その様子をただただ傍観するしかないゼミメンバー。
 掛けるべき言葉が見つからない柏木も静かに背を向け、階段教室の扉を開けてその場を後にする。こんな事になるのなら夜勤を断れば良かったな、と激しい後悔の念に襲われながら。

 

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