8時限目 〜跳躍〜 C棟。言うなれば、全てはここから始まったと言っても過言では無い。この5階建ての建物は教室棟であり、学生の必修科目の大半はC棟で行われる。古池ゼミも例外では無く、香苗たちは毎週金曜の午後4時に、ここの1階にある教室に集合する。そう、今日もそうだった。集まって早々、古池にゼミの休講を告げられ、妙な約束を取り付けられたのだ。 「なんか、水族館の魚になった気分だな」 竜崎が目の前の壮絶な光景を見て呟いた。ガラス扉が3枚横に並んだ正面玄関にゾンビが大集合し、中にいる香苗たちを物珍しそうに見ている。 「俺も水族館は好きだぜ。けどな」 駒沢がガラス扉に近付き、手の平をガラスにペタッと付ける。正面にいたゾンビの何体かが、ガラス越しに駒沢の手の平をひび割れた舌でベロベロと舐め始めた。 「何も俺たちは中で泳いでる魚が食いたくて水槽を眺めてるワケじゃねえんだぜ」 確かに水槽を舐め回す客などいない。香苗は妙に納得してしまった。 「コイツら何なんだ…どう見ても死んでるのに動いてる。こんなの、まるでゲームの世界じゃないか」 柏木が言うと、五木がすかさず有名なホラーゲームのタイトルを嬉しそうに口にした。この状況で喜んでいられるのは五木ぐらいなものだろう。 「さて、説明してもらうぞ。お前ら、一体ここで何をしてた」 腐汁の付いた右の拳をハンカチで拭っていた磯部に対して駒沢が聞いた。 「俺たちは先生に呼ばれて研究室に来ただけだ。先生が赤い光の漏れている壁をハンマーで叩いたら、地震が起こって気を失った」 「何だそりゃ。怪しげな儀式か?」 「儀式っつーか、えーと、地獄への入り口を発見したとか何とか言ってたぜ」 竜崎が説明を加える。 「すまん、全然理解できねえ。何だよそりゃ」 「推測だけど、フルチ教授は入り口を無理矢理広げようとしたんじゃないかな。その結果、地獄が現世に溢れた。今や日本、いや世界中で赤い空の下を餓鬼が歩き回っているのかもね」 五木が信じたくもないことを平然と言ってのけたが、どうも何かが引っ掛かる。いつもは周囲に見える筈の施設や家屋は消え去っているのに、このキャンパスだけは綺麗にそのままだ。香苗は詠子の意見を聞こうと思ったが、詠子の姿が近くに居ないことに気付いた。 「ごめんなさい…私、私のせいで、こんな」 詠子は香苗たちの遙か後方、階段教室への入り口に通じる扉にもたれ掛かり、泣きじゃくっていた。 「詠子、どうしたの?」 「ごめんね、香苗。私、1人で何とかするから」 詠子は涙を拭うと、クルリと背を向け、階段教室入り口の左脇にある非常口に向かって歩き出した。 「古池先生に会ってくるわ。みんなはここで待ってて」 詠子が非常口に到達する。内鍵を捻って解錠し、ドアノブに手を掛けると、内開きの扉を開けた。外に出ようとした次の瞬間、すぐ外に居た何かに詠子は衝突し、その場で立ち止まる。全裸の痩せ痩けた老婆が、光の無い眼で詠子を捉えた。扉はストッパーのようなものが掛かったのか、はたまた建て付けの問題なのか、内側に開け放たれたままその動きを止めていた。 「バカ野郎!早く扉を閉めろ!」 駒沢が叫んだ時には遅かった。詠子と衝突した老婆は、詠子の右腕を掴むと顎が外れるほどに大口を開け、薄手のカーディガンごと二の腕の一部を噛み千切った。絶叫を上げる暇もなく、老婆は咀嚼をしながら詠子の両肩を掴むと、今度は床に押し倒した。 「詠子!」 香苗はその場から飛び出すように走り出したが、開け放たれたままになっている非常口から、老婆に続けとばかりにゾンビの群れが侵入してくるのを見て思わず足を止める。 「お前らは非常階段で上に逃げろ!あの姉ちゃんは俺たちが何とかする」 駒沢が後ろで指示を出しているが、今は一刻も早く詠子を助け出さなければマズイ。押し倒された詠子は自由の利く左手で必死に老婆の首を絞め上げているが、長くは持ちそうもない。老婆は詠子の首筋に噛み付こうと、がむしゃらに歯をカチカチと鳴らしている。ゾンビの群れは詠子には目もくれず、香苗たちの方へ向かって歩き出していた。 「バカ!そっちに行くな!」 入り口すぐ右手にある非常階段を昇り始めている竜崎の警告を無視し、香苗はゾンビの群れに向かって走った。そう、奴らはノロい。上手くゾンビとゾンビの間をすり抜ければ、詠子を救えるかもしれないと思った。だが、その試みはすぐに失敗した。やり過ごしたと思った1体に後ろから襟元を捕まれ、物凄い力と共に詠子は後方に倒されていた。頭は強打し、何が何だか分からずにいると、腐臭混じりの吐息と共に、口以外の箇所がドロドロに腐りきってノッペラ坊のようになっているゾンビの顔面が目の前にあった。ヤバい、食われる。 「前山!」 ゴキンッという鈍い音と共に、ノッペラ坊の頭が首から半分千切れて頸骨を覗かせた。香苗の顔面に返り血と思われるウジ虫混じりの茶色い粘液がパタパタと降り注ぐ。竜崎は息を切らしながら鈍器として使用した消火器を床に投げ捨て、香苗に手を差し伸べた。 「大丈夫か?行くぞ」 この勇敢な男は本当に竜崎なのだろうか?混乱する香苗は顔面に降り注いだウジ虫を払い、竜崎の手を掴んで立ち上がると、迫りくるゾンビから背を向けて走った。駒沢が左手に警棒、右手に拳銃というスタイルでゾンビの群れに歩み寄っていった。柏木も警棒を両手で握り、覚悟を決めたかのように駒沢に続く。 「詠子をお願い!」 香苗は非常階段を昇りながら2人の警備員に向かって叫んだ。 「おい、そっちは危ないぞ!」 既に3階付近の踊り場に到着していた磯部の声を無視し、何者かが香苗と竜崎の横を猛スピードで走り抜ける。ブラウスにスカートの小柄な女の子だった。恐らく高校の制服なのだろうが、ブラウスは血塗れであったし、手にはアーチェリー部が使用するような弓が握られ、腰には矢が数本入った筒のようなものがぶら下げられている。あれは一体誰だ。突然現れた謎の女子高生を追って、上階から磯部と五木、そして咲の3人が慌てて降りてくる。 「下がってください!」 1階に到着した女子高生が2人の警備員に向かって言うと、矢をつがい弦を引く。間髪入れずに放たれた矢は、ロビーに蠢くゾンビの隙間をすり抜け、詠子を襲っていた老婆のこめかみを一直線に貫いた。力を失った老婆がガクリと詠子の胸元に顔を埋める。女子高生は直ぐ様その場から走り出し、行く手を阻むゾンビにタックルをしながら開け放たれたままになっている非常口に辿り付くと、勢いよく扉を閉めて内鍵を閉める。 「大丈夫ですか?」 覆い被さっている老婆の亡骸から何とか抜け出した詠子に対して、女子高生が言う。詠子の二の腕は血塗れになっていた。 「噛まれたんですね」 女子高生が老婆のこめかみから矢を引き抜き、付着している肉片を払い落とすと、それを弓にかけて、真っ赤に染まった腕を押さえて座り込んでいる詠子に狙いを定めた。 「やめて!」 今まさに矢を放とうとしている女子高生に向かって香苗は叫んだ。 「今、殺さなかったら後悔することになりますよ」 女子高生が冷酷に言い放つ。香苗は、血塗れの腕を押さえて座り込んでいる詠子の元へ歩み寄ると、女子高生を見据えて、詠子を守るように両手を広げる。状況はサッパリ分からないが、詠子が殺されるのを黙って見ているわけにはいかなかった。 「どいてください!」 「その物騒なモノを下ろしな、嬢ちゃん」 駒沢が拳銃を女子高生に向ける。 「助けてもらったことは感謝する。けどな、その怪我した姉ちゃんはゾンビじゃなくて生きてる人間だぜ。それとも3年前の続きでもやろうってのか?榊和美」 「あ、あなたはさっきの…」 その言葉に駒沢は眉をひそめる。 「さっきだぁ?お前さんにとって“3年前”のことは“さっき”なのか?」 榊は暫く沈黙した後に、香苗と詠子に向けていた矢を弓から外し、腰の筒に入れる。 「バ、バカなこと言わないでください。3年?あれから3年も経ってるんですか?というより、ここは一体どこなんですか?私がさっきまでいた高校は」 「落ち着け、ここは大学だよ。黄泉川大学」 磯部が榊をなだめるように言う。 「その制服…山雛高校。その学校はもう存在していない」 咲の言葉に榊が愕然とした表情で凍り付く。 「山雛高校って、あの3年前の!?」 柏木が驚嘆の声を上げた。 「多分、タイム・リープってヤツだね。時間と空間を超越して跳んできたんだよ」 五木が1人納得した顔で言うが、そんなジュブナイル小説みたいな話が現実に起こるとは思えない。とはいえ、夜空が赤く染まり、腐った死体が歩いている時点でもはや何でもありになっているのだが。 「今回もテメエが絡んでたとはな。今度は何人殺せば気が済むんだ?ああ?」 駒沢は榊に銃を向けたまま動かない。榊も負けじと駒沢を睨み返す。 「や、やめましょうよ、駒沢さん。事情はさっぱり分からないけど、まだ子供じゃないですか」 柏木の言葉に「うるせえ」と駒沢。 「騙されるな柏木。さっきお前に話した怪物、それがこのクソ女子高生なんだよ」 「でも」 「黙らねえとテメエから殺すぞ!」 完全に頭に血が上っている駒沢が柏木に銃口を向ける。このままでは埒があかない。今もっとも重大なのは怪我を負っている詠子だ。 「そんなことよりっ!」 香苗は大声で口論を遮った。よっぽど威圧的だったのか、その場にいた全員が香苗に注目していた。 「そんなことより、詠子の手当が先でしょ?」 香苗の言葉に駒沢は小さく舌打ちをした後、柏木に向けていた銃を下ろした。 「…柏木、応急処置を」 駒沢がロビーの壁際に設置されていたソファにドスンと腰を下ろす。「了解です」と応答した柏木がすぐに詠子の元へ掛け寄り、腰のベルトに装着していたポーチから白い布を取り出す。詠子の顔色がますます悪くなっていた。一刻も早く病院に連れていかなければ危険だということは、素人の香苗にも明白であった。 「詠子、古池先生に会ってどうするつもりだったの?」 柏木が止血をしている横で、香苗は詠子に質問をする。俯いていた詠子がゆっくりと顔を上げた。 「古池先生なら解決策を知っている筈だから」 「それで1人でA棟まで行こうとしてたの?無茶し過ぎ」 香苗が言うと、詠子は弱々しい笑顔で「人のこと言えるの?」と冗談混じりに返してきた。確かに、ゾンビの群れに突っ込んだりと、色々無茶をしてきたような気もする。 「大量殺人鬼の嬢ちゃんよ」 ソファに座っていた駒沢が榊に声を掛ける。 「お前さん、あの死体どもの弱点を知ってたな。前にもこんなことがあったのか」 “大量殺人鬼”という言葉が癇に触ったのか、榊はあからさまに不機嫌な顔で「ありました」とぶっきらぼうに言う。 「学校が霧に包まれて、下校した筈の生徒がヤツらになって襲ってきたんです。それで襲われた仲間も同じようにヤツらになって…でも、全て終わらせた筈なのに、気付いたら警察に追いかけられてて」 「俺の部下を全員殺した。畜生、子供だと思って油断したぜ」 「違うんです。体か勝手に…その、私じゃないというか、まるで誰かに操られているみたいになって…それで急に意識が飛んで、この建物で目を覚ましました。窓から外を見たらヤツらがいたんで、慌てて武器を探してたんです」 「確かにアーチェリー部の部室がこのC棟にあったね」 五木が納得する。 「都合の良い記憶だぜ、まったくよ」 駒沢が天を仰ぎながら言った。 「今回は霧なんて出てないし、外にいるヤツらはどう考えてもここの生徒には見えないね。君の時とは大分状況が違うように思えるんだけど」 五木がいつになく真面目に榊に話掛ける。 「状況が違うとなると、ヤツらの性質そのものも変わってくるんじゃないかな。つまり、噛まれた増渕さんがヤツらに変化するとは限らない。それに、噛まれても感染しないゾンビ映画なんて山程あるしね」 最後の一言が余計であったが、榊は「そう、かもしれませんね…」と渋々納得をした後、「…すみませんでした」と詠子に頭を下げた。これで、榊が詠子の命を狙うことは無くなったというわけだ。 |
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