7時限目 〜餓鬼〜 

「おいっ」

 頬を強く叩かれる感触。自分はいつから眠っていたのだろうか。香苗は瞼を開けると、夕日に染まった真紅の空が視界を覆い尽くしていた。背中が痛い。何だか妙な夢を見ていた。深夜に大学に呼び出され、詠子が好きそうなオカルト話を聞かされて…。

「姉ちゃん、大丈夫か!」

 誰が姉ちゃんだ。こんなゴツい声の弟など自分には居ない。頬をしきりに叩き続ける人物に視線を移すと、夢の中に登場した年配の警備員が香苗の顔を心配そうに覗きこんでいた。夢?いや違う、あれは夢なんかじゃなかったのだ。香苗はアスファルトの地面から体を起こし、立ち上がると周囲を見渡す。落雷に打たれたように突如倒れ込んだゼミのメンバーや警官らは、今や全員覚醒していて香苗と同じように落ち着かない様子で周囲の様子を伺っていた。
 夕日に染まった真っ赤な景色が、黄泉川大学のキャンパスを不気味に照らし続ける。いや待て、呼び出されたのは深夜だった筈だ。今が夕方だなんて絶対にあり得ない。それに、信じられないことだが太陽が何処にも無い。香苗は腕時計で時間を確認すると、時計の針は12時を指したままその動きを止めていた。

「駄目でした、駒沢さん。無線機も携帯電話も使えません」

 柏木と呼ばれていた若い警備員が走ってきて、駒沢…年配の警備員に報告をする。まったく異様なことだらけだ。倒壊寸前だったA棟はいつもと変わらぬ様子でそこにあるし、巨大な渦巻きに吸い込まれた筈の建物や木々、香苗が今立っているアスファルトの地面もいつも通りのままである。しかし、何かが違う。この違和感は何なのだ。

「な、無くなってる、よな…」

 竜崎が後ろの方で呟く。そうだ。無くなってる。大学のキャンパスはそのままであるが、キャンパスの敷地外の住宅街や公共施設、遠くに見える筈の見慣れた景色までもがそっくりそのまま消え失せている。キャンパスの校門から一歩先は、赤い地面が果てしなく続いているように見える。ここは一体何処だ。それに、目覚めた時から臭覚を刺激するこの異様な臭いも気になっていた。

「増渕、顔色が悪いぞ。大丈夫なのか?」

 磯部が詠子に問いかける。そうだ、詠子なら何か事情を知っている筈だ。香苗は詠子に近付き、その腕を掴む。

「知ってるんでしょう?今、何が起こっているのか」

 無言。詠子は香苗の質問には答えず、両目を世話しなく動かしていた。軽いパニックを起こしているようだ。

「詠子!」

 大切な親友に平手打ちをするのは気が引けるが、香苗はやむを得ず詠子の頬を打った。詠子の顔がハッとした表情になり、香苗の目を見据える。

「詠子、お願いだから教えて。何が起こっているの?」

「誰も…誰も生き残れない。全部おしまい」

 詠子は不吉なことを言うと、A棟の外壁に背をもたれかけ、虚ろな目で赤い空を見上げていた。駄目だ。全然話にならない。

「古池先生は今も研究室にいるのか?」

 磯部がA棟の入り口を振り返りながら言う。

「多分いるだろうね。この現象を起こしたのは間違いなくフルチのオッサンだよ」

 五木の言葉に全員が納得せざるを得なかった。知らないうちに古池に催眠術でも掛けられているのではないかという疑惑も香苗の中にはあった。

「だとしたら、ここは地獄」

 考えたくも無いことを咲が呟いた。地獄なんて…そんなものが本当にある筈ない。

「楽しそうにグループ・ディスカッションしているところ悪いがな」

 駒沢が額の汗を拭いながら近付いてきた。

「臭いの正体は、どうやらアイツらみたいだぜ」

 駒沢が指さした校門を見ると、赤い地平線から大勢の人間…なのだろう。まるでデモ行進を行うように徐々に、徐々にであるが校門に近付いてくるのが分かった。かなり距離の離れたここからでも、彼らの着ている衣服が薄汚れてズタボロになっているのが分かったし、灰色やドス黒い頭部も明らかに健常者のそれとは違っていた。
 唸り声の大合唱を轟かせながら、ヨタヨタとおぼつかない足取りで校門ににじり寄ってくる集団に向かって、しきりに制止しようとしている守衛と警官2名の姿も確認出来た。守衛は校門から赤い地面の続く外へ出ると、勇敢にもその集団に向かって笛で警告をしながら近付いていく。

「無茶なクソ爺さんだぜ。相手の正体も分からねえってのに」

 駒沢が呆れたように言うが、クソ爺さんはあんまりだろうと香苗は思う。守衛が集団の目の前まで来たその時、彼はその中の1体に赤い地面へと押し倒され、そこに次々と他の連中が群がった。守衛の絶叫がここまで聞こえてきた。鮮血と思われるものが、放物線を描いて次々と噴き上がるのが分かった。

「動脈をやられたな」

 駒沢は冷静に観察をしながら言うと、横でパニックになりながら口をしきりにパクパクさせている柏木の肩に手を置いた。

「この臭い。過去に何度か嗅いだことがあったが、腐乱死体の臭いだ。信じたくもねえが、アイツらは腐ってるのに生きてやがるんだよ」

「古池先生の言ってた餓鬼ってヤツか」

 磯部が言うと、五木が「リアルゾンビだ!」と嬉しそうにはしゃいだ。別に餓鬼でもゾンビでも構わないが、そろそろ逃げた方が良いのではないか。守衛を助けようと警官2名が走り寄るが、彼らもいとも簡単に群れに飲み込まれ、絶叫だけが響きわたる。

「柏木、校門を閉鎖するぞ。お前らも手伝え」

 駒沢がA棟に隣接している駐車場に向かって走る。

「行くぞ、前山」

 磯部が香苗の名前を呼ぶと、2人の警備員に続いて走った。ちょっと待て、何で女の私なんだと香苗は抗議しようとも思ったが、磯部以外の男子といえばビビって動けない竜崎と念願のリアルゾンビを見れて大ハシャギしている五木、詠子は赤い空を眺めて呆然自失だし、咲の地面まで付きそうなゴスロリ服のスカートでは走るのは困難だろう。

「前山、早く!」

 なるほど、私しかいない。香苗は納得すると磯部の後を追って走る。警備会社のロゴが入った乗用車の運転席に駒沢、助手席に柏木が乗り込みと、すぐにエンジンを始動させる。香苗は磯部に続いて後部座席に座った。
 
「ちょっと無茶するぜ」

 駒沢が宣言すると車は急発進し、速度を上げながら惨劇の舞台となっている校門に向かって突き進んだ。

「駒沢さん!どうするつもりですか!?」

 助手席の柏木が大声で訪ねると、駒沢は「こうすんだよ!」とアクセルを踏み続け、開放状態の校門から赤い地面の続く敷地外へと猛スピードで飛び出し、ゾンビの群れに車体を突っ込ませた。いとも簡単にゾンビは茶色やドス黒い液体を周囲に飛び散らせて木っ端微塵になり、フロントガラスに彼らの体の一部がこびり付く。髪の毛を生やした頭皮、視神経がぶらりと垂れ下がっている眼球、小腸、大腸、肉片肉片肉片…。
 凄惨な光景に香苗の胃液が逆流しそうになったのも束の間、車は急ブレーキと共に停車し、後部座席の香苗と磯部は思わず前の座席に体をぶつける。殺戮を終えた車は凄いスピードでバックし、校門の手前側へと戻ってきて停車した。駒沢と柏木が車から降りたので、香苗と磯部もそれに続く。研究棟の前に居た時とは比べものにならないくらいの濃厚な腐臭に、香苗は再び嘔吐しそうになる。

「お前らは校門の閉鎖を頼む」

 駒沢は命令すると何故か校門の外の赤い世界へと走って行ってしまった。一体、何がしたいのかさっぱり分からない。

「どこ行くんですか、駒沢さん!」

「いいから門を閉めろ柏木!俺のことは気にすんな」

 車で大量虐殺をしたとはいえ、あくまで群れの一部を一掃したに過ぎない。難を逃れた何百というゾンビの群れは、駒沢にターゲットを定めてヨタヨタと歩み寄っていた。駒沢は立ち止まり、腰のベルトから警棒を抜く。囮になるつもりなのか。

「クソ、動かない!」

 柏木が校門右側に小さく畳まれた状態の蛇腹式フェンスを広げようと引っ張るが、ビクともしないようだ。磯部もそれに加勢するが、2人の力を以てしてもフェンスは動かない。香苗は冷静になってフェンスを観察すると、地面に固定する為の杭のようなものが下部に付いていた。

「2人とも、どいて」

 鼻を片手でつまんで嗅覚を遮断した香苗はフェンスに近付いてしゃがみ込み、地面に固定されているピンを上に向かって引き上げた。これでフェンスは動く筈だ。磯部と柏木が再びフェンスを引っ張ると、下部の車輪がガラガラと音を立てて地面のレールに沿って動き、いとも簡単にフェンスは閉鎖された…外にいる駒沢を残して。
 
「駒沢さん!」

 柏木が叫ぶ。腐臭の原因ともなっている夥しい数の死者の群れは駒沢を完全に飲み込んでいた…かに見えたが、ゾンビの足下から駒沢が這い出てくるのが見えた。駒沢は立ち上がり、閉鎖されたフェンスに向かって勢いよく走り寄る。跳躍と共に、自分の背丈の半分以上はあるフェンスに手を掛けて飛び越えると、香苗たちの足下に背中からドスンと落下してキャンパス内に帰還を果たした。かなり憔悴しているようであったが、その顔は如何にも「してやったり」とでも言いたげな表情であった。 

「一体何をしてたんですか!」

 柏木が駒沢に手を貸して立ち上がらせると、駒沢はニタリと笑ってポケットから鍵の束を取り出した。

「守衛の持ってた大学構内のマスターキー。あとな」

 鍵をポケットにしまい、今度は両手を背中側に回す。

「M360J、通称SAKURAを2丁。哀れな警官の置き土産ってワケだ」

 芝居掛かった台詞と共に両手で2丁の拳銃を構える駒沢。盗人猛々しいとはこのことだ。香苗は駒沢という男の神経を疑うと同時に、あまりの手際の良さに感心もしていた。香苗の記憶では、警察の拳銃は盗難防止の為に電話機のコードのようなもので繋がれていた筈であるが、この男はあの状況下でそれを外したということになる。
 ゾンビの群れが校門に到着し、フェンスの隙間から次々と腕を突き出し始めた。爪が剥がれ落ちた痛々しい手、皮膚がズルリと剥けて神経組織の丸見えになっている赤黒い手、ミイラのようにカサカサに干からびた手…様々な手が香苗たちを捕らえようと宙を掻いている。あまり見たくなかったが、香苗はゾンビの群れの顔に視線を移す。
 近くで見ると凄い迫力だな、と香苗は強烈な腐臭のことも忘れて思わず見入ってしまった。性別の分からないくらいに顔面が完全に腐敗し、空っぽになった両目の眼孔に蜷局を巻いたミミズがウネウネと蠢いている者もいれば、頭から大量のタールを被ったような冗談みたいな者もいる。そうかと思えば、ただ単に2日酔いで物凄く顔色の悪いサラリーマンにも見える顔の男もいた。

「な、なあ、このフェンス大丈夫なのか?」

 磯部が不安を隠せない様子で駒沢に聞いた。個性豊かな死者の群れがフェンスをグラグラと揺らしているが、その何体かはフェンスを掴む腕が肩からすっぽ抜けて地面に倒れ込んでいる。

「フェンスを壊せるほど体は頑丈じゃ無いみたい」

 香苗が呟くと駒沢は「腐ってんだから違えねえや」と笑った。その時、後方から香苗のよく知る声…というよりも絶叫が聞こえた。詠子の悲鳴だ。思わずその場に居た全員が振り返ると、想像を絶する光景が飛び込んできた。キャンパス内の至る所にゾンビがユラユラと自由気ままに歩き回っている。詠子含むゼミメンバーが逃げ惑い、A棟から少し離れたC棟の玄関口へと逃げて行くのが見えた。

「クソ学生どもめ、あっちは施錠されてるぞ」

 駒沢が舌打ちと共に車に乗り込むと、すぐに「行くぞ、乗れ!」と全員を促した。

「こ、校門は閉鎖した筈なのに一体どうして」

 車に乗り込むと、助手席の柏木が動揺しながら駒沢に訪ねた。

「気付かなかった俺もバカだがな。要するに、学校は刑務所じゃねえってことさ」

 駒沢が車を急発進させながら言う。香苗も薄々は気付いていた。そう、何も学校の周囲は高い壁に覆われているワケでは無いのだ。ゾンビどもはご丁寧に校門から入る必要は無く、ありとあらゆる方向からキャンパス内に入ることが出来る。今、このキャンパスは公園の砂場の真ん中に置かれた飴玉だ。無数の蟻が甘い蜜に吸い寄せられ、四方八方から飴玉を求めて群がるのだ。
 
「あれはさっきの…」

 助手席の柏木が何かに気付いて外を指さす。C棟とは少し離れた場所にある食堂棟…D棟のガラス扉を必死に叩いている青年の姿があった。すぐ後ろにはゾンビの大群が迫っている。

「唐橋さんだわ!」

 香苗は思わず叫んだ。

「お願い!唐橋さんを助けて」

「姉ちゃん、無茶言うなよ。とりあえずクソ学生の面倒を見てからだ」

 唐橋は木々の生えている植え込みから大き目の置石を手に取り、ガラス扉に向かって力いっぱい放り投げた。ガラスは砕け散り、人1人が進入するには十分な大きさの穴が空くと、唐橋がD棟へと逃げ込んで行くのが見えた。唐橋は年上でしっかりしているし、頭だって良い。1階建てのD棟に都合の良い隠れ場所があれば良いが、とりあえず彼は彼で上手く逃げ延びるだろう。むしろ今心配すべきなのは、親友の詠子の方だ。
 車はC棟前にフラフラとしているゾンビの群れの一部を跳ね飛ばして急停車すると、駒沢はポケットから鍵の束を取り出し、後部座席の香苗に渡す。

「俺と柏木が死体どもの注意を引き付ける。その間に鍵を開けてやれ。大丈夫だ、奴らは分散してるし、足だってクソみたいに遅いからな」

「お、俺もですか?それなら拳銃1個くださいよ」

 柏木が言うと駒沢は「バカかお前は」と悪態を付く。

「素人のお前に持たせたら俺の命が危ねえ。それにこの拳銃はな、5発しか弾が入らないんだよ。2丁合わせても計10発。外の死体どもは何千体いやがると思ってんだ。ここぞという時以外は使わねえよ。よし、行くぞ」

 駒沢が勢いよく運転席のドアを足で開けると、車に近付きつつあった1体のゾンビがその直撃を食らって一回転をした後にドサリと倒れた。本当にトロい。これだったら、掴まれない限りは大した驚異ではないのかも知れない。香苗も素早く車から降りると、急いでC棟の玄関口で狼狽えているゼミメンバーに合流した。

「前山、鍵が、鍵が掛かってて」

 青い顔をして扉をガチャガチャと揺らす竜崎を横にどかし、鍵の束をまじまじと見る。全部で10本近くあるが、果たしてどれがマスターキーなのか香苗には見当も付かなかったが、とにかく1本1本試すしかないだろう。後方に迫りつつあるゾンビが気になるが、今は2人の警備員を信じるほかない。
 
「前山、早く」

「い、いい急げよ、前山ッ」

「前山さん、頑張って!お、あのゾンビすっげー」

「急かさないで!」

 好き勝手なことを言って急かしてくる男子3名の声が耳障りだが、とりあえず鍵穴に刺してみたうちの3本は外れだった。震える手元から4本目を手に取るが、どうもコレは最初に手に取った1本目の鍵に似ている。いや、むしろコレは既に試した鍵では無かったか?香苗は気が狂いそうになりながら、後方を振り返り駒沢に向かって叫ぶ。

「どの鍵なの!?」

 駒沢は警棒を横に振るい、四方を取り囲むうちの1体の側頭部を陥没させながら「知るか!」と叫ぶ。その横では柏木がミイラのように全身の裸がカサカサになっているゾンビと取っ組み合い、何とか相手の不潔な口に警棒を噛ませると、そのまま柄を握った手を上に押し上げる。梃子の原理によってゾンビの下顎がボロッと外れて地面に落ちると、行き場を失った黄土色の乾燥した舌がブラブラと振り子のように揺れた。その非現実的な光景に思わず見入ってしまった香苗は、警備員の脇をすり抜けて視界の端から迫りくるゾンビの存在にまるで気付かずにいた。

「危ない!」

 いきなり後ろから襟首を掴まれて引き寄せられると、香苗の右横に迫りつつあった1体の顔面がブシャッと空気の抜けたゴム鞠のように潰れ、両目がそれぞれの眼孔の端からこぼれ落ちた。磯部の放った鋭い右ストレートがゾンビの顔面を破壊したのだ。

「ライミ社!」

 下顎の無いゾンビと未だ取っ組み合いをしている柏木が突然香苗に向かって叫んだ。香苗は慌てて鍵束に目をやると、同じように見える鍵には全て会社名と思われるロゴが刻印されていた。その中に「来美」と書いてある小さな鍵を見つけ、すかさず鍵穴に差し込む。これだ、間違いない。

「開いた!みんな早く!」

 香苗はC棟内部に入り、ガラス扉を内側に開放すると、ゼミメンバーと、全身にドス黒い返り血や肉片を浴びた2人の警備員も飛び込んできた。すぐさま扉を閉鎖し、内鍵を掛ける。追ってきた無数のゾンビの群れがガラスに衝突し、そのうちの何体かは地面に倒れてジタバタしていた。まさに間一髪である。

「やるじゃねえか、姉ちゃん」

 駒沢が息を切らしながらニタッと笑うと、香苗も苦笑でそれを返す。今後、背後から迫るゾンビを気にしながら、鍵束から目当ての鍵を見つけなければならない事態に遭遇するとしたら、その役割は別の誰かに押し付けようと香苗は思っていた。

 

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