2時限目 〜心傷(1)〜 その日、柏木圭の穏やかな昼寝タイムを妨害したのは会社からの着信であった。夜勤明けの疲れ切った体をベッドに横たわらせ、既に浅い睡眠へと入っていた柏木は気怠そうに枕元の携帯電話を取って通話ボタンを押すと、隊長の声がスピーカーから聞こえてきた。 「お前、今日夜勤出来るか?」 出来るわけがない。今朝、夜勤を終えて帰ってきたばかりなのに、これからまた出勤しろというのか。柏木は睡眠を妨害されたこともあり、少しムッとしながら「俺、非番ですよ」とぶっきらぼうに言った。 「バカ、非番だから頼んでんだよ。お前の同期の飯田、アイツの嫁さんの具合が悪いらしくてな。お前どうせ暇だろ?」 「ウチの嫁も今朝から体調が」 「バカ、お前独身だろ」 まったく冗談の通じない上司である。柏木は渋々了解し、携帯電話を枕元に置く。とんだ貧乏クジだな、と思いながら壁に掛かった時計を見つめる。午後1時30分。夜勤には4時頃に家を出れば間に合うから、2時間程度の仮眠は取れる計算になる。まあ、十分だ。それに、その夜に何も事案が起きなければ、ひたすら暇なのが警備員の気楽な点である。 まぁ、いいさ。柏木は気楽に構えて、目を瞑った。 しかし、その考えが甘かったことに気付かされたのは出社後、ロッカー室で制服に着替えている時であった。 「非番なのに大変だな、柏木」 同僚の遠藤だ。退屈な職場では他人の不幸が何よりも娯楽となる。遠藤はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら柏木の肩をポンと叩いた。 「別にいいさ。どうせ家に居てもやることないしな」 「今日のお前の相方、サージらしいぜ」
「サージ?サージってあのサージか?」 柏木は目の前が真っ暗になった。約3年前、妙な時期にこの隊へ異動してきた隊員がいた。常に仏頂面で誰とも打ち解けようとせず、ただ黙々と仕事をこなす。その上規則にやたら五月蝿く、キレたら誰にも手に負えないというとてつもなく厄介な男である。ある隊員が巡回中の車内でドーナツを食べていたら、車から放り出されて地面で腕立て伏せを強要させられたという逸話もあり、昔のベトナム戦争映画に出ていた鬼軍曹を彷彿とさせることから付いた渾名がsargent(軍曹)…サージである。 「柏木、お前明日の朝になったら3キロぐらい痩せてんじゃないか?」 「ドーナツはやめといた方が良さそうだな、少なくとも」 まぁ、何とかなるだろう。不安は隠しきれなかったが、またしても柏木は気楽に構えることにした。明日の朝になれば、全てが終わっている。明日の、朝までの辛抱だ。 「ラ、ラジオでも聴きますか」 沈黙に耐えかねた柏木が、サージの答えを待たずに車内のラジオを付ける。 「お前、名前は?」 ようやく口を開けた!柏木は妙に嬉しくなり、敵意を感じさせない、精一杯明るい笑顔で「柏木です」と答えた。 「柏木、防刃ベストを着けてないな。やる気がないんだったら今すぐ降りろ。邪魔だ」 まさしく噂通りの人物だな、と柏木は納得する。仕方なく、後部座席に放り投げてあった暑苦しい防刃ベストを数か月ぶりに装着する。この平和な日本で、こんな仰々しい重装備をしたところで滑稽なだけであることをサージに力説しようかと思ったが、さすがに相手が悪いと柏木は判断した。 「あとな」 「はい?」 「必要な時以外は口を開くな、以上だ」 柏木は「はい」と小さく返事をし、窓から外を眺める。今日は長い夜になりそうだな、と溜め息を吐いた。 爆音と共に、ゾンビの頭部が脳髄を撒き散らして弾けた。その瞬間、ステージクリアの音楽が流れて画面にスコアが表示されると、思わずギャラリーから歓声が上がった。 22時30分。営業を終えたゲームセンターは、バイトたちの憂さ晴らしの場となっていた。全てのゲームを無料でプレイ出来るという、ゲームマニアには垂涎の空間であるが、香苗は特にゲームに思い入れはなかった。ゲームセンターというアルバイトを選んだ理由も、学校から近く、何よりも時給が良かったからである。 その香苗が今、ガンシューティングゲームのハイスコアを取っていることに、誰もが驚きを隠せずにいた。 「何で前山だけそんなに点数高いんだ?」 悔しそうに言ったのは香苗と同い年のゲームマニアの男子、柿崎だった。 「俺の方が沢山ゾンビ殺したのに」 「倒した数じゃなくて、破壊した部位に応じて得点が加算されるシステムだからだよ」 冷静に解説したのは、社員の照山だった。 「前山さんは、出てくるゾンビの頭部を全て正確に撃ち抜いていたからね。もしかして、前世は凄腕のスナイパーだったりしたんじゃない?」 香苗は勝ち誇ったように振り向き、銃型のコントローラーを指でクルクルと回す西部劇のガンマンのような仕草をした。 「無駄な才能その1ってヤツ。ねえ、照山さん、約束通りジュースおごってよ」
照山は苦笑いをしながら、自販機コーナーへと消えていった。ハイスコアを獲得したバイトには、もれなくジュースが貰えるという特典付きであった。 「それにしても、あれだけ猛ダッシュしてきたら普通は頭なんて狙えないよな。大体、腐った死体が全速力で走ったら足がモゲるに決まってるだろ。生物学的にありえないよ」 死体が甦っている時点で生物学もへったくれも無いような気もするが。香苗は、腑に落ちていない様子でボヤいている柿崎の言葉を聞きながら、照山が買ってきたミルクティーを飲むと、ハッとして腕時計に目をやる。 「前山さん、そろそろ時間じゃないか」 声を掛けてきたのは1つ年上の唐橋だった。香苗は今まであまり会話をしたことが無かったが、大学に夜11時半までに行きたいという香苗の無茶苦茶な要求を「暇だから良いよ」と快く引き受けてくれた青年である。 「あ、じゃあお願いしていいですか?本当にスイマセン」 唐橋は「車、店の前にスタンバイさせとくよ」と言い残し、裏口から出て行った。そのやり取りを見ていた同い年の同僚の絢子が肘で香苗の背中を小突く。 「香苗、アンタいつの間に唐橋さんと…」 「いやいや、送ってもらうだけだし」と照れながら言いつつも、実は内心満更ではなかった。モデルの仕事もしていたという唐橋のルックスはゼミの連中からすれば天と地の差だし、都内の有名大学に通っているので頭だって良い。それ故に、今まで手の届かない存在なのかと思っていたが、今日の休憩中にアッサリと会話出来てしまったどころか、彼の車にまで乗せてもらえることになったのだ。 「あー、アタシも唐橋さんの車に乗せてもらいたかったなぁ!」 絢子がワザとらしい地団駄を踏むのを尻目に、香苗は照山に「お疲れ様でした」と告げて店の外へと出た。いっそ、大学なんて行かずに夜の浜辺にでも連れて行ってもらおうかとも考えたが、脳裏に詠子の姿が過ぎると、香苗はその甘い誘惑を心の奥へと封印し、唐橋の真っ赤なスポーツカーに乗り込んだ。 竜崎が90年代に流行したバラードを熱唱している。五木はノートPCに夢中になっているし、磯部は部屋の外で誰かと電話をしていた。 香苗はまだ来ないのだろうかと詠子は大きく溜め息を吐く。ふと、腕時計に目をやると23時になっていることに気付き、隣に座っているゴスロリ服の咲に声を掛ける。 「ねえ、そろそろ学校に向かった方が良いような気がするんだけど」 「…」 何か言葉を発したのが分かったが、竜崎の歌声によってかき消されてしまった。今度は耳元で話掛けようと詠子が軽く腰を浮かした時、ノートPCに向かっていた五木の「ああ、何でだよもう!」という変声期前を彷彿とさせる甲高い声が聞こえた。いつの間にか電話を終えて部屋に戻ってきていた磯部が、一体何事かと五木のノートPCをのぞき込む。 「僕のよく見るホラー映画の紹介サイト。3年前から更新が途絶えてたんだけど、今見たらページ自体が存在しなくなってるんだよね」 バラードを歌い終えた竜崎もストローでジュースを飲みながらノートPCに目をやる。 「管理人が飽きたか、忙しくて更新する暇が無くなったんだろ。その手の個人サイトにはよくある話じゃん」 竜崎が珍しくまともなことを言う。五木は唸りながらキーボードを操作する。 「これは当時のミラーサイトなんだけどさ」 画面を覗き込む磯部と竜崎。咲はいかにも興味無しといった表情で、ポケットからピンク色の箱の煙草を取り出して口にくわえると、リボンの装飾が施されたジッポライターで火を着ける。甘ったるい香りが詠子の鼻孔を刺激した。 「ここ、プロフィール欄を見て」 「管理人SGR、山雛高等学校剣道部所属の18歳…おい、これって」 磯部がハッとして画面に近付く。 「そう、ガス災害事故のあった山雛高等学校。管理人は間違いなくこの世にいないってこと」 五木が溜め息を吐いてノートPCを閉じる。3年前に山雛高等学校に通っていたということは、その時に欠席でもしていない限りは間違いなく犠牲になっているだろう。都市伝説好きの詠子にとって、未だに原因が究明されない例のガス災害については思うところが多くあるが、詠子にとって今一番重要なのは時間である。 「ねえ、そろそろ約束の時間も近付いているし、カラオケから出ない?」 詠子が勇気を振り絞って会話を断ち切る。磯部が「ヤベ、そんな時間か」と携帯電話で時間を確認すると、テーブルの上に乗せられた、ガラスのコップに入ったカクテルと、山盛りのフライドポテトに目をやる。 「何だ、結構残ってんだな」 「みんな歌うことに精一杯だったからね」 五木がポテトを口に運ぶ。その横から竜崎が「ここのポテトって味薄いんだよな」と言いながらも5つ程指に掴んで豪快に口に放り投げた。咀嚼、咀嚼、咀嚼咀嚼咀嚼… 「そういえば詠子ちゃん、全然食べてないじゃん」 竜崎が口の中の残留物を惜しげもなく披露しながら言う。詠子はポテトに目をやった瞬間、どこからともなく声が聞こえてきた。 …残しちゃダメよ、詠子ちゃん。最後まで食べないと今日は帰れないんだから 響く竜崎の咀嚼音、歪む視界、込み上がる胃液。 次の瞬間、詠子は口元を押さえて部屋から飛び出していた。トイレの個室にドアも閉めずに駆け込むと、便器に顔をうずめる。胃液の酸っぱい味が口いっぱいに広がっていた。 …まただ。いつになったら、この苦しみから解放されるのだろうか。 「大丈夫なの?…増渕さん」 すぐ後ろに咲が立っているのが分かった。不信に思い、慌てて追いかけてきたのだろう。 「だ、大丈夫だから。あっち行ってて」 両手を握りしめ、手の震えを押さえながら詠子は言った。 「会食恐怖症。馴れない場所や人前で食事をすることに強い不安感を伴う不安神経障害の一種。原因は様々だけど過去のトラウマによるところが大きい」 今のは本当に咲が発した言葉なのかと思い、詠子はしゃがんだままの体勢で青白い顔を振り向かせる。目の前に突き出された白いレースの装飾が可愛いハンカチを受け取ると、立ち上がって洗面台へと移動した。 「詳しいんだね。誰も知らない病気だと思ってたけど」 「精神科医。母が」 そういえば出会って間もない頃にそんなことを言っていたか。詠子は口をゆすぎ、ハンカチで口を拭う。まだ胃液の味が口の中に残っている気がした。 「おかしいでしょ?みんなにとって、友達同士で食事をする事は楽しみの1つかもしれないけど、私にとっては苦痛以外のなにものでもないの。変だよね、こんなの」 咲に打ち明けたことによって気が楽になったのか、詠子は自然と涙を流していた。 「母が担当する患者に、パニック障害の治療を受けながら生徒会長を務めていた女子高生がいた。あなたもきっと良くなる」 雛菊咲という人物はこんなにも良く喋る女子だったか。もしかしたら、普段のあのキャラは憧れのアニメキャラの模倣でもしているのかもしれない。詠子は青白い笑顔で一言「ありがとう」と言い、ハンカチを畳んでデニムのポケットに入れた。今度洗って返すときに、何かお礼もしたいなと考えていた。 「詠子ちゃん、大丈夫かよ!?」 トイレを出ると、廊下で待っていた竜崎が開口一番に言った。 「具合が悪いんだったら、今日は帰った方が良い」 磯部も心底心配している様子だ。その隣では五木が部屋に置きっ放しにしていた詠子のトートバッグを持って立っていた。詠子は「ごめんごめん、ちょっと寝不足で」と適当な言い訳をし、五木からバッグを受け取る。そう、ここで帰る訳には行かない。この目で“アレ”を見れる日がとうとう来たのだ。私は、絶対に大学に行かなければならない。 |
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