15時限目 〜光輝〜

 地獄を照らし続ける赤い光は目張りの段ボールをも透過し、さながらダウンライトのように古池の研究室をぼんやりと灯していた。テーブルを囲むように座る4人のメンバーは、誰も口を開こうとしない。永遠にも思えるような沈黙。みんな、とにかく疲れきっていた。このフロアに存在する全ての窓ガラスに目隠しを施す作業を終え、非常食で軽い食事をとったものの、疲労を回復するには至らなかった。体が猛烈に睡眠を欲していたのだ。
 榊もまた、山雛高校から続くゾンビとの死闘で体力の限界を感じていた。それに、この漆黒の闇とも言えぬ、うすらぼんやりとした光量の研究室は、前回の惨劇の終着点である山雛高校の地下室を連想させ、榊は言い寄れぬ不安感に襲われていた。
 …また、私だけが生き残ってしまうかもしれない。
 だが、榊は思う。例え生き残ったところで帰る場所などあるのだろうか。現世への扉が開放されたとして、都合よく3年前の世界に戻れるとは思えない。恐らく、そこで待っているのは自分の知らない3年後の世界だ。警官を殺し、行方不明だった女子高生が当時のままの姿で突然現れたら、世の中は恐らく大パニックになるだろう。

「だから、世界はそれを無かったことにする」

 いつか、どこかで聞いた台詞だった。榊の真っ正面に座っていた前山が、いつの間にかある人物の顔になっていた。
 
「…室岡先輩!?」

 驚きのあまり榊が立ち上がると、前山の呆気にとられた顔がそこにはあった。斜向かいの柏木も心配そうな表情で榊を見ている。極度の疲労で、軽い幻覚を見てしまったのだろうか。

「知っているの?室岡先輩を」

 隣に座っていた雛菊が訪ねる。

「ええ。あの、山雛高校で一緒に籠城した3年生の先輩でした」

「この大学の室岡先輩の妹、ということね」

 雛菊が納得したように言う。室岡の口から姉がいるという事実を聞いたことが無かった榊は、雛菊の言葉に驚きを隠せなかった。姉がいたということよりも、姉妹揃って通っている学校がゾンビ騒動に巻き込まれていたという恐ろしい偶然に。
 …偶然?果たして本当にそうなのだろうか。榊が疑問を抱いたその時、前山がゆっくりと席から立ち上がった。

「…ちょっと気になることがあるの」

 前山は窓際にある古池のデスクに移動すると、古池の私物と思われる机上のノートPCを起動させる。モニターの明かりが研究室を照らしていった。電気は通っていないが、ノートPCには内蔵電源がある。地獄への空間転移が起きてから1日も経っていない今なら、バッテリーの残量もまだまだ余裕があるのだろう。

「私が倒れて、みんなが食料を探している間に古池教授の所有物を色々と調べてたんだけど」

 榊を含む3人はノートPCの前に移動する。モニターはメールソフトの起動画面を表示していた。程なくして、接続状態を確認するように促すエラーウインドウが出る。当然だ。今の状態でネットなど使える筈が無い。前山はマウスを操作してエラーウインドウを閉じると、メールの受信箱を開いた。

「空間転移が始まる前、古池教授が最後に受信したメールよ」

 昨日付けで受信されているそのメールには次のような一文が書かれていた。

 “今夜決行ですね。良い成果を期待しています”

 今夜決行。この、馬鹿げた課外授業について知っている人物が居たということなのだろうか。今、榊たちが置かれているこの最悪な状況が、このメールを送った人物にとっての“良い成果”なのだとしたら、こんなふざけた話は無いだろう。
 榊はふと、幼い頃に興じたある遊びを思い出す。それは、家の前で蟻を捕まえては水を張ったバケツに延々と移すという残酷極まりないものであったが、突然異常な状況下に放り込まれて恐慌状態に陥る蟻の反応が、幼い榊の好奇心を大いに刺激していた。
 今、自分たちはバケツの水に浮かんだ蟻だ。そして、この状況を観察している人物が何処かに居るのかもしれない。

「メールの送り主は誰だ?」

 柏木が言うと、前山がメールのアドレスにマウスポインタを持っていく。古池のPCに登録の無いアドレスなのか、そこには人名などの記載は無かった。しかし、前山は何かを確信しているのか、アドレスの後半部分、@から連なるyomikawa-u.ac.jpの部分をドラッグして反転させる。

「これって、ウチの学生全員に貸与されているノートPCのアドレスなの」

 続いて前山はアドレス前半の“h19850402ym”の部分を反転させた。

「hは人間社会学部の生徒を指していて、数字の羅列は生年月日。1985年生まれということは、恐らく今の4年生。そして、最後のアルファベットはイニシャルになっている。咲、何となく心当たりあるんじゃない?」

 雛菊がコクリと頷き、「室岡…弥生先輩」と呟いた。室岡弥生。つまり、榊の知っている室岡の姉が、地獄の門の開放について知っていたということなのか。

「4年生でイニシャルがYMの人間なんて、他にもいっぱい居るんじゃないか?」

 柏木の言葉に前山は首を振り、机の一番下のキャビネットを開けて分厚い本を指さす。

「在学生名簿で調べて見たけど、人間社会学部の4年で、イニシャルがYMに該当する生徒は1人しか居ないの。だから、このメールの送り主は間違いなく室岡先輩ということになる」

「その、室岡って奴はオカルトマニアか何かなのか?」

 柏木の問いに前山は「あまり喋ったことが無いから」と肩をすくめる。榊はそこで、自分の知りうる妹の方の室岡の情報をみんなに話した。彼女が自称超能力者の変人として校内では有名であったこと。そして、それが決して本人の妄想などでは無かったことも。事実、室岡は山雛高校で起きた怪異が1人の少年が受けたイジメに起因することを早々に見抜いていたし、榊に待ち受ける運命についても知っていた。
 そして、榊はA棟で交わした駒沢とのやり取りを思い出す。榊の体を操ってSAT隊員を殺害し、3年後の世界へと送った人間がいると駒沢は推測していた。

「もしかしたら、私が今こうして3年後の世界にいるのも室岡先輩のお姉さんの力が関係しているのかもしれません。理由は分かりませんが」

「ゾンビとの戦いを経験した人物を地獄に送り込む理由か…。単純に、君たち生徒を助ける為に手配したとは考えられないか?警察が、ある女子生徒から情報提供を受けて大学近辺を巡回していたらしいが、もしかしたらそれも室岡がやったことなのかも」

 好意的に解釈するなら柏木の言う通りなのだろうが、あのメールの内容を考えるとどうにも納得が出来ない。例えそうだとしても、榊は自分の意志とは無関係に殺人を犯してしまったのだから、その室岡の姉とやらに抱く印象はあまり良いものでは無かった。

「今、私たちが議論しても答えは出ないわ」

 話し合いにあまり興味を示さなかった雛菊がぶっきらぼうに言い放つ。確かに、全ては憶測の域を出ない議論だ。今はとにかく、現世に帰ることだけを考えるべきなのかもしれない。榊は、柏木の時計と正確に時刻を一致させた自分の腕時計に目をやる。現世の時間軸では、今は昼の13時48分だ。

「残り10時間と少し、ですね。ようやく折り返し地点といったところでしょうか」

「そうだな」

 柏木も自らの腕時計を見ながら呟く。

「とりあえず、驚異となる少財餓鬼とやらの対策は終わったし、後は非常階段のゾンビどもに防火扉が突破されるのを防ぐだけだ。残りの時間、交代で防火扉の前を見張ろう」

 柏木の提案はこうだった。前山と榊、柏木と雛菊がペアとなり、交互に2時間交代で任務に付く。任務といっても、1人は防火扉に張り付き、もう1人は各部屋や廊下の窓ガラスの点検という簡単なものであったが、このフロアから身動きの取れない状況では餓鬼の侵入が命取りになるので、見張るという行為は最善の仕事といえた。それを2セット繰り返して8時間を消費。残った2時間はそれぞれのペアが1時間ずつ担当するという、これ以上無いというくらいに平等な割り当てであった。

「本来なら男の俺が少しでも多くの時間を見張るべきなのかもしれないが、ただでさえ夜勤明けの非番勤務だ。弱音を吐かせてもらうと、正直今はアパートのカビ臭い布団が恋しくて堪らないよ」

 柏木の言葉に雛菊がクスっと笑った。榊の知る限り、雛菊のこんな顔を見たのは地獄に来てから初めてであった。

 

 永遠とも思われた時間は順調に、そして何事もなく過ぎていった。研究室で待機しているメンバーはささやかな仮眠を取り、任務に付くメンバーは、刻一刻と迫る現世の開放にただただ思いを馳せる。
 柏木は今、赤のダウンライトがぼんやりと照らす薄暗い廊下で、窓際に背中を預けて座り込んでいた。すぐ左隣にある頼もしい鋼鉄の扉の向こうでは、相も変わらず餓鬼の唸り声が聞こえている。泣いても笑っても、あと1時間後には結果が出る。仮に現世への門が開放されない場合、最悪の手段も考慮しなければならなかった。五木の言う第3の選択。すなわち自殺だ。
 柏木は右手に握られた拳銃をおもむろに取り出す。弾丸は2発しか無い上に、今、自分の近くにはいつ化け物になるとも知れない人間がいる。

「…窓ガラス、特に異常は無い」

 いつの間にかすぐ側に現れた雛菊に柏木は思わず体を硬直させた。柏木が、雛菊とペアを組んだ理由は他でもなく、雛菊がオニとなる可能性があったからだ。餓鬼化した五木を葬った時の、あのゾッとするような笑み。それは、食堂で殺戮の限りを尽くしていた唐橋の表情と非常によく似ていた。

「了解。いよいよ後1時間ってとこまで来たが、まだ油断できないな」

 まるで自分に言い聞かせるように、柏木は言った。すると雛菊は、無言のまま柏木の隣に座り込む。スカートのポケットから、ピンク色の小箱を取り出す。それは柏木の知らない銘柄の煙草であった。

「眠気覚ましにどう?」

 雛菊が1本差し出してきたので、柏木はそれを有り難く頂戴する。柏木自身、決してヘビースモーカーでは無かったが、それでも疲れきった夜勤明けに吸う煙草の味は格別で、柏木は必ずお気に入りのメンソールを待機室のロッカーに入れていた。
 しかし、今、柏木の指先にあるピンク一色の煙草はどうにもメンソールとは掛け離れた香りを漂わせている。恐る恐る口にくわえると、まだ火も点けていないのにムッとした甘い匂いが鼻腔を刺激した。やっぱり返そう。柏木がそう思った次の瞬間、すかさず雛菊がライターで着火させる。この世のものとは思えない、悪魔の如き甘ったるい煙が肺に進入を開始し、柏木は涙が出るほど大きくむせた。

「おい、この煙草は一体何だ!?」

 柏木が抗議の声を上げると、雛菊が「だから眠気覚まし」と無邪気に笑い、自分も悪魔の煙草を平然と吸い始める。習慣というのは恐ろしいものだ、と柏木は思った。

「もし、元の世界に帰れたらの話だけど」

 珍しく雛菊が饒舌に話しかける。

「あなたはまず誰に会いたい?」

「さあ…」

 難しい質問だった。親しい友人もいなければ、恋人もいない。母親は自分を生んですぐに亡くなったし、実家にいる父親とも今はほとんど疎遠だ。そうなれば、会いたいのは父親と言うべきなのだろうか。だが、今更会ったところで何を話せばいい?

「誰か、待ってる人とか居ないの?」 

 いつまで経っても答えの返ってこない柏木に業を煮やしたのか、雛菊が更に突っ込んだ質問をしてくる。柏木は考えるのが面倒臭くなり、ここは自分なりにユーモアのある回答をすることにした。

「俺を待ってるのは、勤務中に突然消息不明になったことを説明する大量の顛末書だけさ」

 その答えに、雛菊が心底ガッカリした表情をする。

「ふうん。格好良いのにね」

「顛末書の何がそんなに格好良いんだ?」

 大真面目に答えた柏木の言葉に雛菊が吹き出し、煙草の煙を盛大にまき散らしながら噎せ返った。何故、自分が笑われたのかまるで分からない柏木は大いに困惑し、こんなことが、この地獄に来てから少なくとも2回はあったことを思い出す。

「と、ところで、君の方はどうなんだ?会いたい人でも居るのか?」

「居る」

 雛菊の即答に柏木は思わず彼女の横顔に視線を移す。先ほどまで見られた笑顔はすっかり消えていた。

「会って、殺さなきゃいけない人間が居る」

 柏木の背筋に冷たいものが走り、右手に握られた拳銃に思わず力が入る。返す言葉が見つからず、柏木は黙って雛菊の話を聞くことにした。
 遡ること3年前。雛菊が立ち上げたアニメ関連のブログサイトにオフ会への参加を持ち掛ける書き込みがあった。興味本位で参加を決意し、待ち合わせ場所へと赴いた雛菊であったが、彼女はそこで4人の男にワゴン車へと強引に連れ込まれて、凡そ3時間にも渡って性的暴行を受けたという。

「アニメ好きのオタク女なら簡単に強姦出来ると思って、あの4人の男は偽のオフ会への参加を持ち掛けたのでしょうね。ま、結果的にその通りになったのだけれど」

 雛菊は無表情で淡々と語る。被害届けを出したら動画をネットで流布させると脅され、雛菊は司法の手を借りずに復讐することを決心した。稼いだバイト代をありとあらゆる格闘技の道場へ通う為の費用にあて、4人組の男が同じ手口で犯行をするであろうことを推測し、同ジャンルのブログサイトを別名義で幾つも立ち上げた。

「今のところそれらしい書き込みは無いけれど、私は待ち続ける。そして、いつか必ず奴らを殺してみせる」

 雛菊は言い終えると、短くなった煙草を床に押し付けて火を消した。柏木も同じように火を消すと、餓鬼と化した五木の首を捻った時の雛菊の表情を思い出す。とても残酷な笑みにも見えたあの表情。あれは、体得した技の効果を実感出来たことに対する喜びの表情だったのかもしれない。
 前山や五木は言った。自分たちが今ここにいるのは因果なのだと。地獄へと墜ちることが確定事項なのだとしたら、雛菊は近い内に復讐を完遂するのだろう。だとすれば、今ここで自分が「命は尊いものだ」とか、「憎しみは憎しみを生むだけだ」などと安っぽい説教をしたところで、彼女が殺人を犯すことは不可避な出来事なのかもしれない。
 そして、それは柏木自身にも言えることだった。一体、自分がどんな罪を犯すのか想像も出来ないが、柏木は、現世で待ち受ける未来が決して明るいものでは無いことを予感していた。昔、父は言っていた。運命とは大河のようなもので、流れは決して変えられない。母が死ぬのも最初から決まっていたことなのだと。

「不思議ね。ゼミの人たちにも打ち明けたことないのに、あなたにこんなことを話すなんて」

 雛菊が下を向く。その後、長い沈黙が続いた。男として、何か気の利いた言葉を掛けるべきなのは分かっていたが、どうにも言葉が見つからなかった。赤のダウンライトが照らす廊下は、永遠とも思える静寂に包まれている。その時点で、柏木は気付くべきだった。静寂がいかに異常かということを。

 

 ノートPCのバッテリー残量の少なさを警告するウインドウが表示されたが、香苗は構わずそれを閉じる。机に突っ伏している榊の寝息を聞きながら、香苗はある文書に釘付けになっていた。それは、偶然見つけたテキストフォルダであったが、そこに書かれているのは古池の遺書ともとれる内容であった。そして最後の一文。あまりに信じ難い、その最後の一文を読み、香苗はこの世界に来てから最大の絶望感を抱いていた。これをみんなに伝えるべきなのかどうか考えを巡らせていると、ふいにノートPCの電源が切れた。青白い光を失った研究室は再び赤一色へと染まる。
 …今はよそう。とにかく、帰ることだけを考えるべきだ。香苗は不安の種を記憶の片隅に置き、まもなく現世への扉が開放されるであろう、ぽっかり空いた壁の穴を眺めた。

 

「何か聞こえない?」

 沈黙を破ったのは雛菊だったが、柏木も同じタイミングでそれを察知していた。防火扉の向こうから聞こえる、次第に近付いてくるヒタヒタという不気味な音。それは、何者かが非常階段を上がってくる足音に間違いなかった。そして、今になってようやく足音以外の音が聞こえないこと、つまり餓鬼の唸り声が一切聞こえないということに気付いてしまった。餓鬼が忽然といなくなるのは、オニが現れる前兆だということは今までの経験で分かっていた筈なのに。
 足音が止まった。柏木と雛菊は立ち上がり、徐々に開かれていく防火扉の前で2、3歩離れて身構える。そこに現れたのは、青いフジツボを腫瘍のように全身に生やした異形の怪物。手に持った肉切り包丁や下半身のズボンなどから、その正体が食堂ホールで対峙した人物だということは柏木には分かっていた。

「唐橋、か…」

「あなたが殺したって聞いたけど」

 雛菊からの鋭い質問に、柏木は何も答えられなかった。

「後悔先に立たず、ね。私が始末するから柏木さんは逃げて」

 雛菊の言葉に柏木は思わず笑いそうになってしまった。右手で構えた拳銃の照準を唐橋の頭部に向け、空いている左手で警棒を抜く。

「そういうのはさ、男が言う台詞なんだぜ」

 もう、躊躇などしない。柏木は決心して引き金を引くが、弾は発射されなかった。慌てて拳銃を確認しようとするが、握った筈の拳銃が見当たらない。いや、それどころか、右手が思うように動かせなかった。数歩の間合いがあった筈の唐橋は今、柏木の目の前にいる。
 柏木はそこでようやく、動かすべき右手が肘間接ごと床に転がっていることに気が付いた。雛菊の悲痛な叫びが聞こえる。体中の血液が腕の切断面から放出されていくのを実感しながら、柏木の意識が徐々に遠のいていった。自分の頭上へと振り落とされる血塗れの肉切り包丁。それが柏木の最後に見た光景だった。

 

 崩れ落ちる柏木の向こうに立つ敵の姿を雛菊は睨み付ける。相手のスピードはかなり早く、手強い相手だ。だが、雛菊にはどうしても負けられない理由があった。あの気色の悪い腫瘍だらけの瞼の隙間から見える目の光。あれは、女を性欲の捌け口としか見ない男特有の眼光だ。3年前、雛菊はそれを間近で見ていた。もしかしたら、本当にもしかしたらの話であるが、唐橋はあの時、自分に危害を加えたメンバーの1人だったのかもしれない。その僅かな可能性を考えると、雛菊は自分の中の闘争心が俄然燃え上がっていくのを感じた。

「相手になってあげるわ。この強姦魔」

 雛菊は不敵に言い放ち、スカートのポケットからカッターナイフを取り出した。

 

 鳴り響く銃声が鼓膜を震わせ、香苗は小さな悲鳴と共に椅子から僅かに跳び上がった。中央の机に突っ伏していた榊も同じタイミングで顔を上げ、2人はすぐさま閉ざされた研究室の扉を見る。銃声が鳴ったということは、柏木が拳銃を使わざるをえない事態に遭遇したと考えるのが自然だ。榊もそれを承知したのか、椅子から立ち上がり、壁に立てかけてあった非常災害用の柄の長いハンマーを手に取る。

「確認に行ってきます」

「私も一緒に行くに決まってるでしょ。仲間なんだから」

 仲間。まさか、自分の口からそんな言葉が出るとは思わず、香苗は恥ずかしさを紛らわす為に研究室の扉を乱暴に開けて我先にと廊下に出た。
 気が狂いそうなほど赤一色に覆われた通路を非常階段方面へと走り抜けると、廊下の中央で何かに跨ったような姿勢で座り込む咲の後姿が目に入った。その、ただ事では無い雰囲気に香苗と榊の足は思わず止まる。咲のトレードマークでもあったゴスロリ風の衣服はズタボロに切り裂かれ、かなりの出血も見られた。香苗たちの存在に気付いた咲がこちらに首を向けると、彼女の憔悴しきった目が2人を捉えた。

「咲…」

 咲は跨っていた“何か”から立ち上がり、体をクルリと香苗たちの方へと向ける。衣服の前部も激しく切り裂かれ、無情にも左側の乳房が露わになっていた。しかし、何よりも香苗の目を引いたのは腹部に深々と突き刺さっている大型の刃物であった。香苗はとっさに駆け寄ろうとするが、咲は左の手の平をこちらに向けて制止を促した。そして、右手を自らのこめかみへと運んでいく。その手には拳銃が握られていた。

「咲、駄目!」

 咲は滅多に見せない満面の笑顔を見せ、引き金を引いた。再度銃声が轟き、咲の体が崩れ落ちる。
 香苗には分かっていた。咲が跨っていた気色の悪い物体…恐らくオニとの死闘を終えた咲は、自らの命が間もなく尽きることを悟り、餓鬼への転化を防ぐ為に頭を撃ち抜いた。最後まで仲間を思って行動していた咲の思いに、香苗は今まで彼女のことを理解しようとせず、ただの変人扱いをしていた自分を強く恥じた。自然と溢れる涙が筋となって頬を伝っていく。

「もうイヤ、こんなの」

 ついに、古池ゼミのメンバーは自分を残して全員が死んでしまったのだ。毎週の頭痛の種だったあのゼミ。詠子以外は友達とも思っていなかった、変わり者たちの集会。あの日常が戻ってくることは永久にないという現実に打ちのめされ、香苗は膝の力を失い廊下にへたりこんでしまった。

「悲しんでいる暇は無いですよ」

 榊が冷淡な口調で言うと、香苗の手の取り強引に立ち上がらせる。幾多にも重なった餓鬼の唸り声がすぐ側まで聞こえていた。そして今、防火扉は完全に開放された状態にある。今すべきことは扉を閉鎖し、非常階段を上ってくる餓鬼が廊下へと雪崩込むのを防ぐことだ。
 しかし、行動に移そうと思い立ったその時には、数体の餓鬼が廊下へと進入を開始し、すぐ側にある御馳走に群がった。それが柏木の遺体であることに気が付いた香苗は完全に理性を失い、恐らく人生で一番の叫び声を上げる。
 その刹那、香苗の頬がピシャリと打たれた。

「しっかりしてください!前山さん!」

 榊の叱責する声が聞こえる。だが、香苗の気力はもう残されていなかった。一歩も動きたくないし、動けない。このまま餓鬼に食い殺されるのも悪くないと思い始めていたその時、断続的な電子音がすぐ隣から聞こえた。榊が片腕を上げて腕時計を見る。どうやら音はそこから鳴っているようであった。

「時間ですね」

 榊が時計の文字盤を香苗の方に見せる。12時00分。現世への門が、ついに開放されたのだ。非常階段からは今も尚、餓鬼が次から次へと進入を開始している。柏木の遺体には既に多くの餓鬼が群がっている為、晩餐に参加出来なかった後続の餓鬼らはまだ手付かずである咲の遺体の方へと歩を進めていた。

「終業のチャイムの時間です。このバカげた授業を終わりにしましょう」

 榊は言うと、例のハンマーを片手で軽々と持ち上げて肩に担ぐ。そして、彼女の捲られたブラウスから見える二の腕に、無数の赤い斑点があるのを香苗は見てしまった。その香苗の視線に気が付いた榊は軽く肩をすくめる。

「私は間もなくオニになる身です。ここに残って、餓鬼と永遠に戦い続けるのが私の運命であり、償いなんです。だから、前山さんは1人で行ってください」

「私1人だけ生き延びるなんて、そんなこと」

 非常階段からの餓鬼の流れは止まらない。柏木、そして咲の死体に食らいつくことの出来なかった後続の餓鬼たちは、今度は前山や榊の方に向けて進行を開始した。

「いつかまた、何処かで死体が歩き回るようなことがあったら、今度は前山さんが力になってあげてください」

 榊が餓鬼の群れへと進んでいく。肩に担いだハンマーを両手で握り、先陣を切っていた1体の餓鬼の頭部へと叩きおろす。頭部は瞬時に胴体から分離し、床に落ちるや否や腐ったトマトよろしく湿った音を響かせ潰れた。

「私は上手く出来なかったけど、前山さんならきっと出来ます!」

 背を向けたまま一際声を張る榊の横を猛スピードで何かがすり抜けていき、香苗に衝突した。その正体が少財餓鬼であることに気付いた時には既に遅く、仰向けに押し倒された香苗は間近で少財餓鬼の目から発せられる赤い光を見ることになった。その瞬間、香苗の視界は赤一色に覆われ、涙とは全く異質の、体内の熱がそのまま涙腺から流れ出たかのような熱い感触の液体が頬を伝っていくのを感じた。

「前山さん!」

 榊の叫びと同時にグチャッという鈍い音が聞こえ、体が急に軽くなる。腕を肩に担がれ、またしても強制的に立たされた。

「まさか、目が見えないんですか!?」

 見えなかった。もはや、香苗の見ることの出来る世界は赤一色のみであった…が、不思議なことに古池の研究室の場所や、そこに至るまでの道順は正確に分かるような気がした。赤に覆われた視界の左上の隅。そこに、強烈な輝きを放つ白い光の点があった。それは、香苗が足を踏み出すと共に少しずつ大きくなっている。それが現世の門への位置を示していることは何故か直感で理解出来ていた。

「大丈夫…みたいですね。お別れです、前山さん。どうかお元気で」

 担がれていた腕が外される。榊が餓鬼の群れと戦闘を繰り広げている音を後方に聞きながら、香苗は廊下を壁伝いに歩いて行く。角を曲がると視界の隅にあった白い光が中央に移動し、それは歩みと共に次第に大きさを増していった。それと比例して、視界を覆う赤の面積が徐々に減っていく。

「みんな、本当に、本当にごめんなさい…」

 誰ともなく呟き、歩き続ける。やがて、香苗は白一色の世界へと包まれていった。

 

 

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