12時限目 〜血戦〜

「あんな化け物、一体どう倒せっていうんだよ!」

 五木の叫びが研究室に空しく響く。足が千切れるくらいの早さで階段を駆け上り、先程までいた7階の研究室に大急ぎで戻って“オニ”を撃退する為の作戦を練ることになっていたが、正直な所、香苗も五木と同意見であった。あんな怪物、倒せる気がしない。だからと言って、残り20時間以上もこの建物の中で文字通りの鬼ごっこをして無事に逃げ延びれる自信も無かった。

「…弱音を吐いてちゃダメです。少し違いますが、私はあの高校でアレとよく似た殺人鬼を1人で倒しました」

 香苗は榊の方を見る。同年代の女子高生の中でも小柄な方なのだろう。筋肉質でも無ければ、特別運動神経が良さそうにも見えない。

「生き残ろうとする意思の強い者が、最後まで生き延びるんです。今回は1人じゃない。協力すれば、絶対に打開策がある筈です」

 とても年下とは思えぬ榊の言葉に、香苗の中にも闘争心が芽生えてきた。そうだ。ここで諦めてしまったら、死んだ詠子や竜崎も報われないだろう。それに、重傷を負っている磯部は未だ1階に取り残されている。現世に帰って治療を受けなければ命も危ない状態だ。

「む、無理だよ。あの磯部さんでも歯が立たなかったんだから!っていうか、オニって、あの伝説とかに残ってる鬼のことでしょ?じゃあ対抗して、桃太郎様でも探してくるか!?」

 五木が研究室を落ち着かない様子で右往左往しながら早口でまくし立てる。遠くから、金棒が階段に当たるゴン、ゴンという音が次第に近付いてきていた。図体のせいか動きは恐ろしく鈍かったが、オニがこの研究室を目指して着実に階段を上っているのが分かった。

「ついでに猿と犬とキジも探してくるか!?それとも、このロシアの酒をみんなで一気飲みしてワケが分からないうちに殺されるか!?どう?これ、結構良いアイデアだと思うんだけどさ!」

「キチガイみたいにギャーギャー騒がないでよッ!!」

 我慢の限界を超えた香苗が大声で五木を一喝すると、研究室が急に静まり返る。あの榊でさえも鳩が豆鉄砲を食らったような表情で香苗を見ていた。しまった。またキレて暴言を吐いてしまった、と香苗は深く反省すると、俯いて落ち込んでいる五木の正面に歩み寄る。

「詠子を庇ってくれた時、私すごい嬉しかったの。あの時の冷静さを取り戻して、五木君」

 香苗の言葉に五木は静かに顔を上げると、眼鏡を指で押し上げる。そして、「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。

「それじゃあ、バケモノ映画の専門家に聞くわ。オニを見ていて、何か気付いた事とか無い?何でも良いの」

 バケモノ映画というジャンルが果たしてあるのかどうかは不明だが、香苗は五木を元気付ける意味も込めて駄目元で聞く。

「そんなこと聞かれても分からないけど…どうにも人間臭いというか、何だかバケモノっぽくない印象があった。確かに異常なくらいデブだけど、体の作りは人間と同じだと思うんだ」

「そんな筈は無いです。頭や、心臓にだって矢を刺しましたけど、全然堪えてませんでしたよ。人間だったら、ソレで死んでる筈です」

 榊がムキになって反論する。

「あの脂肪だよ。皮膚が厚すぎて急所に達してないという可能性だってある。それに、全くノーダメージだったとは思えない。その証拠にアイツ、血を流していた」

 そうだ。香苗も確かに見ていた。オニが引き抜いた榊の矢には、蛍光色の得体の知れない体液が付着していた。

「血が流れてるということは殺せる筈。それだけは確かだよ」

 五木の言葉に香苗はテーブルに並べられた非常災害用具の数々を見る。要は人体と同様、大量に出血すれば死ぬということだ。そうなると、斧が有効かも知れない。だが、磯部の話では薪すら割れない、あくまで扉を破壊する為の斧だ。それに、オニに接近するのはリスクが大きすぎる。

「近付いたら金棒の餌食ね。遠くから攻撃出来る武器が必要だわ。榊さん、矢は何本残ってるの?」

 榊が矢筒を確認して「残り3本です」と答える。かなり絶望的な数字だ。2丁ある拳銃は駒沢と柏木がそれぞれ持っていってしまったし、そうなると石でも投げるしか無いのか…

「…投げ、る…?」

 思わず香苗は呟く。投げる。投げて、相手に致命傷を負わせられる武器は何か無いのか。手榴弾。そんなものは大学に無い。学校中のスプレー缶を集めれば爆弾に近いものは作れる自信があったが、そんな時間はとても無いし、威力もたかが知れているだろう。投げる武器…駄目だ、何も思い付かない。
 やはり、ここはウォッカでも一気飲みして大人しく気絶でもしていた方が良いのだろうか。そう思い、香苗は机の上に置かれた親愛なるミスターコイケへの贈り物に視線を移した。金棒が階段に当たる音が先程よりも大きくなっている。もしかしたら、すぐ下の階まで来ているのかもしれない。

「このまま僕たちをスルーして屋上まで行けば良いのにね。そうすれば、あのデブの脂肪も少しは燃焼するだろうに」

 若干あきらめ気味な口調で五木が囁く。脂肪燃焼…そうか、その手があったか。ウォッカを凝視していた香苗の脳裏に妙案が閃く。

「ねえ、五木君。スピリタスって、度数はいくつなの?」

「け、結局行き着く先は酒盛りコースですか」

 榊が些か失望した様子で呟く横で、五木がボトルを手に取りラベルを読み上げた。

「数字で96ってあるけど…って事は96度!?強いとは聞いてたけど、そのまま飲むのは流石にキツいかなー」

「十分よ。みんな、タオルでも雑巾でも何でもいい。あのボトルの口を塞げるような布を探して」

 香苗が指示を出すと、即座に意図を把握した五木が「なるほど!」と驚嘆の声を上げる。

「バーベキューだね。前山さん天才!」

 榊は未だに分かっていないのか、しきりに首を傾げながら渋々研究室の棚や引き出しを調べている。

「厚手のタオルがありましたけど、一体どうするつもりなんですか?」

 榊から白いタオルを受け取ると、香苗はボトルの蓋を開けて飲み口にタオルの半分を押し込み、逆さまにしてはみ出ているもう半分のタオルにスピリタスを浸透させる。

「か、火炎瓶ですか。確かによく燃えそうな相手ですけど、何で急にそんなことを思い付いたんです?」

「無駄な才能その2よ。本気になった女子大生の恐さ、見せてあげるわ」

 香苗が決め台詞のように言う。相手を出血させるという発想にとらわれ過ぎていた。オニの体が人体と同じ構造ならば、皮膚の70%以上に火傷を負わせることができれば生物学上は殺せる筈…もっとも、死体が平気で歩き回っている世界で生物学もへったくれも無いのであるが。

「ダメだ、肝心のライターもマッチも無い」

 しきりに部屋を捜索する五木の言葉も香苗は既に予想していた。古池は喫煙者では無いので当然だ。だが、古池ゼミ生の中で、ただ1人タバコを吸う者がいるではないか。

「咲、ライター貸して」

 視界の角に見える黒い影に声を掛けるが、返事が無い。いくら大人しい娘とは言え、この狭い研究室内で無視されるのは少し傷付く。「聞いてるの?」と苛立ちを隠せずに香苗が黒い影の方に顔を向けると、部屋の角には期待していたゴスロリ服の少女では無く、帽子を掛ける為の黒いスタンドがあった。
 何ということだ。今までずっと黒い帽子掛けを咲だと勘違いしていたということか。

「大変、咲が居ないわ」

 呆然とする香苗が呟くと、五木も同様にハッとした表情をする。榊に至っては「えっ、他に誰かいましたっけ?」と腕を組んで考え込んでしまっている。普段から影の薄い女の子だったが、まさかここまで自分が咲のことを気に掛けていなかったとはと香苗は深く反省する。咲の地面まで付きそうなスカートでは、素早く走ることが出来ないことは認知していた筈なのに。
 オニが香苗たちのいる7階に到達するのが分かった。金棒を床に引きずる不快な音がすぐそこまで近づいてくると、香苗は口を手で塞ぎ、榊や五木に音を立ててはいけないことを目で訴えた。もしかしたら、このままやり過ごすことが出来るかもしれない。その時、扉のすぐ向こうで咲と思われる短い悲鳴が聞こえた。そのすぐ後に、オニが香苗たちのいる研究室の前を通り過ぎる音が聞こえる。そこでようやく研究室にいる3人は事態を把握した。オニは研究室を目指して階段を上っていたのではなく、足の遅い咲をターゲットにして追い掛けていたということを。

「雛菊さんが危ない」

 五木が机の上の斧を手に取る。助けに行くつもりなのだろうが、1人では無謀過ぎる。

「私も行く。咲からライターを受け取って、すぐに決着を付ける」

 香苗が酒瓶を片手に扉の取っ手に手を掛けると、その手を榊がそっと掴み、「後方から支援します」と笑顔で戦争映画さながらの台詞を吐いた。準備は整った。いざ、鬼退治へ。ドアノブを掴む手の震えは戦いを前にしての武者震いなのか、それとも死を目前としての恐怖からなのか。自分でも判断が出来なかったが、香苗は勢いよくドアを開ける。
 研究室を出て右側の廊下、10mほど先に巨大な赤い肉の塊を確認した。香苗たちから背中を向けて歩いているところを見ると、やはりオニは研究室を素通りしていたのだ。そして、オニの短い足の隙間から、転倒している咲の姿が僅かに見えた。その咲に向かって、オニは天井に付きそうなほど金棒を両手で振りあげている。

「こっちです!!」

 廊下に反響する榊の大声と同時に、オニの背中に矢が突き刺さった。オニは咲に金棒を振り下ろす動作を中断し、香苗たちが居る方へゆっくりと回れ右をする。いよいよだ。

「咲!ライター!」

 香苗は叫んだ。床にヘたり込んでいた咲が口を開けてポカンとしている。オニは金棒を後ろ手に引きずりながら、香苗たち3人の方へと向かってゆっくりと歩き出した。

「ライターが必要なのッ!!」

 再び香苗が酒瓶を咲に見せながら叫ぶと、咲はスカートのポケットから黒いジッポライターを取り出し、廊下の床を滑らせる形で香苗たちの方へと投げる。オニの足の間を潜り抜けて廊下を滑ってきたライターを香苗は素早くキャッチし、リボンの装飾が邪魔で恐ろしく機能性に欠けるライターの蓋を小気味良い金属音と共に開けると、着火装置であるドラムを親指で回転させた…が、小さな火花が散るだけで着火には至らなかった。2回、3回とドラムを回したが、やはり火は着かない。

「ま、前山さん、急いで。オニが来てる」

「前山さん、落ち着いて下さい。でも出来るだけ急いで」

「急かさないでよ!」

 五木と榊が、徐々に迫り来るオニに脅威を感じ、焦りを隠せない様子で香苗を急かす。だが、何度やっても火が着かない。これは自分のやり方云々では無く、完全にオイルが切れているのではないか?と香苗の脳裏にあまり考えたくも無い不安がよぎった。
 いつの間にか、オニが5m程先まで来ていた。後ろから風切り音が聞こえ、香苗の横を掠めて矢が飛んでくる。人間の皮膚で作ったと思しき覆面の眉間の辺りに突き刺さるが、オニは一瞬だけ動きを止めただけで、さほど気にもとめていない様子で矢を抜き、再び歩を進めた。ライターの火は依然として着かない。目前まで来たオニが香苗に向かって斜めに金棒を振り上げたその時、オニの背後にいた咲が、普段からは想像も付かない声を上げながらオニの後頭部に拳を振り下ろした。不意を付かれたオニが今までに無いくらい機敏な動作で振り返り香苗に背を向けると、後頭部にはピンク色のカッターナイフが、刃を目一杯伸ばした状態で深く突き刺さっていた。

「ダメよ咲、早く逃げて!」

 香苗の忠告も空しく、香苗に振り下ろす筈だった金棒は咲に振り下ろされた。まるで野球のバットを振るうかのように右から左へ振るった金棒は脇腹に直撃し、左方向へと宙を舞った咲が窓ガラスを突き破って外へと投げ出された。ここは7階だ。地上へと落ちた咲がどうなるかと言うことぐらいは下を確認しなくても分かっていた。

「前山さん!」

 咲の突然過ぎる死に、放心状態の香苗の肩を五木が揺さぶる。

「前山さん、火が着いてるよ!」

 手元の酒瓶を見ると、飲み口からはみ出ているタオルの先端がゆらゆらと燃えていた。どうやら無意識の内にライターのドラムを回し続けていたらしい。香苗は未だ背中を向けているオニから数歩後ずさり、自分でもよく分からない雄叫びの様な大声と共に火炎瓶をオニの足元の床を目掛けて力強く投げた。
 割れた瓶からたちまち火が昇り、オニの全身が炎に包まれていく。金棒を落とし、必死にもがくオニが咆哮を上げながら、香苗たちの方へと向かってきた。

「や、やばいですよ。逃げましょう」 

 榊に言われるまでも無く、香苗と五木は火だるまになったオニから一目散に逃げ出していた。いくら何でも自分達までバーベキューになるのは御免だ。黒煙を引き連れてオニがヨタヨタと追い掛けて来ていたが、3人が廊下の終着点である非常階段に着く頃には、少し離れた場所で、両膝を床に付けた正座のような姿勢のままグッタリと動かなくなっていた。ついに、オニを倒したのだ。

「このままじゃ火事になりますよ!」

 榊が非常階段の踊り場から消火器を持ってくると、未だ炎上し続けているオニに向かって消化剤を噴射した。たちまち火は消え、外の餓鬼に負けず劣らずの尋常では無い悪臭が残った。消火活動を終えた榊が黒焦げになったオニの死骸を警戒してか、すぐに香苗たちの元へと戻ってきた。

「…さすがに死んでますよね?」

「分からない。でも、念には念を入れた方が良いのかも」

 五木が答えると、片手に持っていた斧を両手で握り直し、オニの死骸へ近付いていく。

「頭を潰してくる。2度と復活させない為にもね」

 意外と男らしいところもあるではないか、と香苗が感心した次の瞬間、息絶えたと思っていたオニが、近付いてきた五木の首を両手で掴み、そのまま静かに立ち上がった。五木は斧を手放し、自分を締め上げる腕を掴みながら足で空を掻いている。すかさず榊が矢をオニの右腕に放つと、右腕は五木の首を解放してブランと肩から垂れるが、左手は依然として五木の首を締め続けている。
 3本あった矢を全て使い果たした榊は、五木の落とした斧を拾おうと走り出すが、オニはその行動を読んでいたかのように片手で持ち上げていた五木を榊に向かって放り投げた。飛んできた五木が榊に直撃し、その後ろにいた香苗をも巻き込んで、3人はドミノ倒しの如く仰向けに重なった状態で倒れ込んだ。

「み、みんな大丈夫?!」

 2人分の体当たりを食らった自分も目眩がするほど痛みを感じていたが、香苗は気力を振り絞って立ち上がった。激しく咳き込む五木もヨロヨロと立ち上がるが、首元にはオニの手の後が焼き印の如く真っ黒に付いていて痛々しい。眼鏡も何処かへ吹き飛んでしまっている。
 榊は完全に気を失っていてピクリとも動かない。息はしているので、生きていることは確かだった。オニは左手で斧を拾い上げて何度も何度も床に叩き下ろしていた。その異常とも言える行動を繰り返す内に、斧の刃がパキンと砕け散る。これで、現段階で武器と呼べる物が無くなってしまった。

「…ここでバッドエンドみたいだね」

 全てを諦めたような笑みを浮かべながら五木が言った。

「イヤよ。絶対にイヤ!あんなキモいデブに殺されるなんて!」

「それ同感」

 聞こえる筈の無い声が聞こえて香苗が振り向くと、窓を突き破って地上へと落ちた筈の咲が、脇腹を押さえながらフラフラと非常階段を上ってきていた。

「ちょっ、何で生きてるの!?」

 混乱のあまり失礼極まりのない台詞を口にしてしまった香苗であったが、咲は不敵な笑みで自分の無事をアピールする。階段を上りきって香苗たちの元に到着すると、重たそうなブーツと靴下を片足ずつ脱ぎ捨て、スカートのポケットからカッターナイフを出す。一体、そのポケットには幾つのカッターが入っているのか香苗は疑問に感じたが、それ以上に疑問だったのは7階から真っ逆さまに落ちたのに何で生きているかだ。

「眼鏡が無いから雛菊さんが居るように見えるんだけど」

「雛菊さんが居るのよ!」

 大ボケをかます五木を香苗が一喝する横で、咲はカッターナイフでスカートを裂き、スリットを入れる。

「あのデブ、絶対ブッ殺す」

 咲が暴言を吐くと、オニに向かって猛スピードで廊下を駆け出した。咲の登場に面を食らっているオニの数メートル手前でタンッと左足を踏み切って前方に跳躍をすると、空中で体を反らし“くの字”に折り曲げた右足の膝をオニの顔面に叩き込んだ。体勢を崩したオニが仰向けに倒れ込み、見事な飛び膝蹴りを決めた咲の方は、オニのでっぷりとした腹に両足を広げるような形で着地した。

「トドメを…今の内に!」

 足を全開にして腹に跨り、暴れるオニの胸を両手で押さえつけている咲が叫ぶ。斧は壊された。他の災害用具を研究室まで取りに行っている時間も無いのかも知れない。そうなると、“アレ”を使うしかないのか。

「五木君、手伝って」

 香苗は五木を連れて走り出すと、咲とオニの横を通り過ぎ、オニの落とした金棒の柄を掴む。五木も加勢し、綱引きをするかのような要領で咲が取り押さえているオニの頭部付近へと金棒を引きずった。そして、床に面した金棒の先端部分を支点にして柄を持ち上げると、2人の老人が一緒になって1本の長い杖を付いているような、滑稽なスタイルになった。

「これを頭の上に落とそうってプラン?」

「そうよ。“せーの”で行くからね」

 柄を掴む香苗と五木が掛け声の後に金棒を上方向に持ち上げるが、金棒の重さは想像以上で床からほんの十センチ程度だけ先端が浮いたに過ぎなかった。腰がおかしくなりそうだったので、2人は本能的に金棒の先端をドスンと床に降ろす。床のタイルに僅かな亀裂が入った。

「クソ、2人だけじゃ無理だ。榊さん!」

 五木が未だ気を失っている榊に向かって声を張り上げた。

「ガキ!いつまで寝てんのよッ!!」

 怪我人に掛ける言葉にしては酷過ぎると自分でも思ったが、今度は香苗が榊に対して叫ぶ。その甲斐もあってか、榊が唸り声を上げながら上体を起こした。すぐに状況を理解したのか、ふらつく足取りで金棒と格闘している香苗たちの元へと着くと、2人と同じく金棒の柄の余っている部分を握った。

「早くして。もう持ちそうにないから」

 起き上がろうともがき続けているオニの上の咲が、状況の割には冷静な口調で言った。

「準備はOK?行くわよ」

 再び香苗が掛け声を掛け、3人は声を上げながら全力を振り絞って柄を持ち上げると、今度は先程よりも高く持ち上がった。オニの頭に落とすには十分だ。香苗は位置を確認する為にオニの頭部に目をやると、僅かに焼け落ちている人肉マスクの隙間から見えるオニの顔を見て驚愕した。
 人間に似ている…というよりも人間そのものだ。外にいる餓鬼と違って生気の感じられる瞳は世話しなく左右に動かされ、これから自分に訪れるであろう死に対しての明らかな動揺が感じられた。

「何してるんですか!前山さん」

 生きている人間を殺そうとしていることに躊躇いが生じている香苗を榊が一喝する。そうだ。迷っている暇など無い。相手に明確な殺意がある以上、殺らなければ殺られる。これは生死を掛けた戦い、血戦なのだ。

「せーのッ!」

 迷いを捨てた香苗の掛け声の後に降り下ろされた金棒はオニの顔面を大きく陥没させ、マスクの隙間から蛍光緑の血液が噴水のように噴き上がった。休む間もなく2度、3度と繰り返し掛け声を掛けて金棒を顔面に叩きつけると、オニの体から力が失われていくのが分かった。今や金棒はオニの顔面に垂直に突き刺さり、直立していた。

「死んでる。もう大丈夫」

 咲が無感情に呟くと、動かなくなったオニの腹から降りて壁に背を預けて廊下に座り込んだ。香苗たち3人も緊張の糸が切れたせいもあって、金棒から手を離して崩れ落ちるかのようにへたり込む。誰もが蛍光緑の血液を浴びていたが、被害が一番大きかったのはオニの顔面の近くに居た咲であった。ゴスロリ服はおろか、頭部にまでタップリと返り血を浴びている。

「で、どうして咲は無事なワケ?」

 頭から大量のスライムを被ったゴスロリ少女に香苗が訪ねると、咲は黙って割れた窓を指さす。香苗は立ち上がり、餓鬼の呻き声の大合唱が聞こえる地上を窓から見下ろすと、ルーフの大きく凹んだ唐橋の赤いスポーツカーがそこにあった。

「軟着陸した。その後、外階段を使って再びA棟へ」

「軟着陸ってアンタ…いや、でも金棒が直撃した筈でしょ!?」

 全然腑に落ちない香苗が再度質問する。

「勢いを殺すことが出来た。肋の2、3本は折れたけど大したこと無い」

 本当に大したことのない様子で咲が答えた。他にも聞きたいことが山程あったが、何を聞いても凄い答えが返ってきそうなので、香苗は「もう…無茶はダメだからね」と彼氏を気遣う彼女のような台詞と共に尋問を終わらせた。

「私、感動しちゃいました」

 榊が、つい先程まで気絶していたとは思えぬ明るい声で言った。

「本気になった女子大生って本当にスゴイんですね!」

 元はと言えば香苗自身が半ばヤケクソになって吐いた台詞であるが、榊が女子大生に対して大きな誤解を生んでしまっていることに香苗は深く反省した。願わくば、彼女が授業中に教師に向かって即席火炎瓶を投げ付けたり、机を踏み台にして真空飛び膝蹴りを顔面に食らわせてくる女子大生にならないことを祈るばかりだ。

「戦勝ムードの空気をぶち壊すようで悪いんだけどさ」

 五木がいつの間にか探してきた眼鏡を掛け、バツが悪そうに口を開く。

「地獄にいるオニが1匹だけとは思えないんだけど」

 五木の発言に全員が硬直した。

「念の為、入り口を固めましょう。1階正面のガラスが割れたままですから、補強が必要ですね。餓鬼が居ない今がチャンスかも知れません」

 「餓鬼が居ない」という榊の言葉に香苗は違和感を覚えた。それでは今聞こえる餓鬼の大合唱は何なのか。榊もその事に気付いたのか、すぐに窓から外を見て血相を変えた。

「そ、そんな!いつの間に!?」

 オニを恐れて一度は撤退した餓鬼の大群は、オニの死によって再び空腹を満たす為にA棟を襲撃しようとしていた。腐臭漂う灰色の津波が、少しずつ押し寄せてきているのが分かった。

「鬼の居ぬ間にってヤツかよ…磯部さんがヤバい」

 真っ先に非常階段に向かっている五木の後を追い、香苗たちも疲れきった体に渇を入れて走り出した。磯部は背骨を折られ、1階で身動きが取れない状態だ。いくら相手が動きの遅い餓鬼とはいえ、逃げるのは不可能に近い。6階、5階と階段を駆け降りるに連れて、餓鬼の唸り声も段々と大きくなっていった。

「磯部さん!」

 1階に着いた五木が、俯せで倒れている磯部の元へと走る。オニの金棒で破壊されたガラス扉から、もの凄い数の餓鬼が溢れんばかりに侵入してきていた。既に何体かの餓鬼は磯部の脛や太腿に食らいつき、口元を真っ赤に染めていた。

「だずっ、だずげでぐれええええ!」

 普段の落ち着きからは想像も出来ない磯部が声にならない悲鳴を上げる。香苗は五木と協力し、磯部の腕を掴んで救出を試みるが、餓鬼の群れは磯部の足を離そうとしない。

「がああああ」

 何体もの餓鬼が磯部のTシャツを爪で裂き、背中の肉を引っ掻き始めた。皮膚はみるみるうちにボロボロになり、筋肉組織が露わになると、1体の餓鬼がシャベルのように手を背中に押し込み、肉を抉る。磯部の口から悲鳴が消え、今はただ激しい吐血を繰り返すのみだった。

「もう、もう、諦めてください!2人とも早く逃げて!」

 後方の非常階段から泣き出しそうな榊の叫びが聞こえた。背中から手を抜き出した餓鬼の手には磯部のピンク色の大腸が握られていた。香苗と五木は同時に絶叫しながら磯部の手を離すと、磯部がみるみる内に餓鬼に飲まれていく。

「ごめんなさい、許して…」

 救えなかった磯部に謝罪の言葉を口にしながら、香苗は五木を連れてその場を逃げ出した。その時、磯部が何か言葉を発したような気がして、香苗は駄目だと分かっていながらも立ち止まり、灰色の津波の方を振り返った。
 磯部は何十体もの餓鬼に体を引っ張られ、上半身と下半身とが真っ二つに分断されていた。上半身の磯部のグッタリとした首がまっすぐに香苗の方を向いている。虚ろに見開かれた磯部の瞳と香苗は思わず目があった。

「おれを、おいで、いぐ、な」

 止めどなくドス黒い血を吐く磯部の口元は、確かにそう告げていた。香苗は再び謝罪の言葉を呟き、仲間の後を追って非常階段を全速力で駆け上った。

 

 

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