11時限目 〜朱鬼〜

 香苗は咲と協力し、A棟1階事務室の長机を2人掛かりでロビーに運び出していた。正面のガラス扉にはロビーに設置されていた幾つものソファが駒沢と柏木によって積み上げられている。外をうろつく餓鬼共の侵入を防ぐには十分過ぎるバリケードだった。

「これ、ここに置いておきます」

 香苗が作業中の駒沢に声を掛ける。駒沢は振り返り、玉になっている額の汗を手の甲で拭った。

「姉ちゃん、無理すんなよ。別に休んでても問題ないんだぜ」

 自分を気遣ってくれている駒沢の気持ちは心底嬉しかったが、香苗はひたすら動き続けることで詠子や竜崎を失った悲しみを忘れようとしていた。
 C棟で変わり果てた詠子を自らの手で殺めた後、あの階段教室にいた誰もが口を開こうとしなかった。長い沈黙を破ったのは、教室に飛び込んできた駒沢だった。そして香苗たちは駒沢の口から衝撃的な事実を聞かされた。古池が自分たちを見捨てて屋上から飛び降りたこと。そして、ここは正真正銘、文字通りの地獄だということも。
 だが、確証は無いものの、元の世界に帰れる可能性も残されていた。それは、このタチの悪いゾンビ特急地獄行きの出発点でもあるA棟7階の古池の研究室であった。駒沢は最大で3人までの後部座席にゼミメンバー4人を押し込み、助手席に柏木を乗せてA棟へと車を走らせたというワケだ。

「…私は大丈夫です。それより、唐橋さんのことをお願いします」

 香苗が車内から見たD棟は、餓鬼によって包囲されていた。唐橋が逃げ込む際に割ったガラスからも、未だに餓鬼が1体、また1体と侵入を繰り返していた。A棟に到着後、駒沢と柏木は一刻も早い唐橋の救出を検討してくれていた。

「まかせとけよ。姉ちゃんのボーイフレンドは必ず俺たちが連れて帰る」

 駒沢の言葉がとても頼もしく思えた。

「裏口のバリケードはOKです」

 そう言って後方から現れたのは榊だ。彼女の後ろにはグッタリとした様子の五木と磯部も居た。察するに、この女子高生に相当コキ使われたのだろう。

「3人ともご苦労だったな。コッチもたった今完成したぜ。そんじゃ早速行くか、柏木」

 柏木が「こんなキツい夜勤は入社以来初めてですよ」と青白い顔に弱々しい笑みを浮かべる。

「あの、やっぱり私も行きます」

 榊の発言に駒沢が静かに首を横に振る。

「嬢ちゃんの役目はここを死守することだ。お前らも“経験者”が残ってくれた方が安心だろ?」

 駒沢が香苗たちゼミメンバーに視線を投げ掛ける。想像もしたくないが、もしも駒沢たちが戻って来なかった時は、頼りになるのは榊だけだ。もっとも、既に成人を迎えている大学3年生が、未成年の高校1年生に頼るというのもおかしな話であるが。

「でも、ホラー映画のお約束だと前作の生き残りは往々にして…わっ痛いッ!」

 何か余計なことを言おうとした五木の頭を磯部がひっぱたく。五木にしてみれば場を和ませようとした発言だったのだろうが、今の状況下でのホラー映画ウンチクはあまりに不謹慎であった。

「まぁ、アレだ。みんな大人しくしてろよ。教授の話を信じるなら、研究室に大人しく篭もってれば良いんだからな。柏木、時間は?」

「ええと、…残り20時間と18分30秒です」

 駒沢曰く、ここにいる人間の中で柏木の腕時計だけが正確な時を刻んでいるらしい。香苗の使っている電波式の腕時計は、しばらくピタリと動きを止めていたかと思えば、急に秒針がグルグルと回りだしてチグハグな時間を表示するようになったし、それは香苗と同じく電波時計を愛用している五木や磯部にも同様の現象が起こっていた。
 ゼミメンバーの中で唯一、咲の腕時計が正常に動いていたが、彼女の時計は長針も短針も秒針も無く、3色にピコピコと光るLEDライトで時を知らせるという奇抜過ぎるデザインで、驚いたことに持っている本人にも正確な時間はさっぱり分からないらしい。

「あ、時間を合わせますんで時計を見せてください」

 榊が五木の腕時計をのぞき込み、ちょうど3年くらい前に流行していた女の子向けのデジタル時計を操作する。それが終わると、駒沢と柏木は外階段を使って屋外の車に乗り込む為、建物の3階を目指して非常階段を上っていった。その後、香苗を含む全員が暫くその場に立ち尽くしていた。誰も、何も語らない。詠子と竜崎、そして教師の古池までもが帰らぬ人となった現実が、鉛のような重さでズッシリとのし掛かっていた。

「…とりあえず、研究室で休みませんか」

 誰に言うワケでも無く、榊がボソリと呟く。

「そうだな。力仕事して何だか喉も渇いたし。ジュースぐらいならあるだろ」

 賛同した磯部が階段を上っていくと、五木、咲がそれに続く。ここに居ても仕方が無いので、香苗も皆の後を追った。

 研究室のカーテンは開け放たれていて、そこから赤い光が漏れている。現世からの空間転移に伴い、学校中の電気が使えなくなっていたので、今は外から漏れる血のような色の照明が構内を照らす全ての灯りだった。入って左側の壁には人間が1人通れるくらいの穴がポッカリと開いていて、隣の研究室が丸見えになっている。狂気に憑かれた古池がハンマーで破壊した為に出来た穴であったが、香苗にとってはそれも随分昔のことのように感じられた。
 中央のテーブルの上には、香苗がC棟から持ってきた白い布袋が乗っている。役に立つかどうか分からないが、武器になりそうなものをかき集めてきたのだ。パイプ椅子に座り込んでいた五木が、布袋に興味を示してその中身を開ける。

「すっげー、斧だよ斧。でも何で学校に斧?まさか、学校にゾンビが来ることを想定してたとか?」

 2時間程前、香苗がC棟を物色していると、ある部屋の隅に「非常災害用具」と書かれたロッカーが置いてあった。その中身は乾パンや懐中電灯などの他に、斧や柄の部分が異様に長いハンマーなど物騒なものまであった。

「消防士が救助で扉とか壊す為のヤツだろ。そういうのは普通の斧と違って刃が鋭利じゃないから、薪割りとかには向かないって話だけどな」

 磯部が床に飛散した壁の破片を足で蹴飛ばしながら答えると、とうに電源の落ちている冷蔵庫を物色し始めた。

「でも、ゾンビの“頭割り”には充分かもね」

 五木が嬉しそうに言いながら手に持っていた斧を机に置き、今度は柄の長いハンマーを手に取る。それを見ていた香苗は、ハンマーの先端に先程の斧をワイヤーで括りつければ凄い凶器が完成するのではないかと閃いたが、肝心のワイヤーを探すのが面倒だということに気付き、その物騒な考えを捨てた。

「紅茶発見。ぬるいけど」

 磯部がペットボトルの紅茶を出すと、戸棚を物色していた咲が「発見、紙コップ」と言いながら手際よく人数分のコップを机に並べていく。「私、注ぎますよ」と榊が磯部からペットボトルを受け取り、紙コップに次々と紅茶が満たされていった。とても地獄とは思えない、何とも呑気な光景である。

「こうなると何だか甘いお菓子も欲しいかも。冷蔵庫の上にあるその箱は?」

 地獄のド真ん中でティータイムとは、そろそろ閻魔に1人残らず舌を引っこ抜かれるのではないかという不安もあったが、香苗は五木の発見した長方形の箱を机の上に置く。すかさず五木が箱を開けると、中にはどうみてもアルコールの類だと思われるボトルがメッセージカードと共に入っていた。

「何語だ?これ」

 磯部がメッセージカードを開くと、そこには見慣れない記号のような文字の羅列が書いてあった。

「…親愛なる友人、ミスターコイケへ」

 咲が難なく読み上げると「履修してたの。ロシア語」と少しも愛嬌が感じられない顔で言った。

「フルチのおっさん、ロシアに友達が居たんだ。ロシアからのお酒って、もしかしてウォッカとか?」

 五木がボトルを取り出しまじまじと眺めると、磯部が横から覗き込む。

「正解。スピリタスだな。世界で1番アルコール度数が高いって言われてる酒だよ」

「…こんな状況で酒盛りとかやめてくださいよ」

 窓際に腕を組んで立っていた榊がクールに言い放ったその時、何かが爆発するような轟音が外から響き、研究室の窓を揺らした。香苗は真っ先に研究室を飛び出し、中庭が一望出来る廊下の窓ガラスに両手を付けて外の様子を見た。
 それは、信じられない光景だった。駒沢と柏木が乗っていた車がA棟のすぐ近くで横転し、黒煙を赤い空に昇らせながら炎に包まれていた。その周囲には、全身が火だるまになった餓鬼の群れがジタバタともがき苦しんでいる。そして爆発を逃れた何百、何千という餓鬼の集団は、その場から立ち去るかのように大学のキャンパスから外の敷地に向かってヨタヨタと歩いていた。何だこれは。研究室で紅茶を飲んでる最中に、一体何が起こっていたのだ。気付いたら全員が香苗と同じく廊下に並んだ窓ガラスから外の絶望的な光景を呆然とした表情で眺めていた。

「あの2人の警備員は…?」

 五木の問いには誰も答えようとしなかった。駒沢と柏木が車に残っていたとしたら、生存が絶望的であることは誰の目にも明らかだった。火だるまになっていた餓鬼はやがて地面に倒れて動かなくなり、残りの餓鬼もどういうワケか全てがキャンパスから綺麗サッパリと居なくなってしまった。唯一、このキャンパスで異質な存在だったのは、炎に包まれて横転した車だけであった。

「来る…何かが」

 咲が不吉なことを言うと、校門の方を指さした。磯部たちが苦労して閉鎖した蛇腹式のシャッターをいとも簡単に薙ぎ倒し、“それ”はキャンパスへと入ってきた。かなり距離があったので肉眼で確認することが困難だったが、徐々に香苗たちの居るA棟へと近付いてくると“それ”の全体像が掴めてきた。
 赤い脂肪の塊…とでも言えば良いのだろうか。まるで全身が日焼けでもしたかのように真っ赤に染まった、ブヨブヨに太った人間型の生物が腹の肉を揺らしながらA棟の玄関に近付いてきている。かなりの重量を感じさせる大きな金棒のようなものを片手で引きずっていて、それがアスファルトとの摩擦で小さな火花を散らしていた。衣服は身につけている様子が無いが、顔だけはボロボロの布袋でスッポリと覆われている。

「入り口を破壊する気ですね。様子を見てきます」

 榊が弓を持って非常階段の方へと走っていったので、香苗もその後を追って階段を降りる。1階エントランスの正面入り口に着くと、積み上げられたソファや長机といったバリケードの隙間から、赤い脂肪の塊が見えた。金棒を両手で持ち、浜辺でスイカでも割るかのように大きく振り上げる動作をしている。

「ちょ、アイツ、一体何者なの!?」

 叫ぶような声で香苗が榊に聞く。

「恐らくオニです。餓鬼に終わり無き拷問を加えるオニ。でも、私たちは餓鬼ではない。だから拷問では無く、たぶん本気で排除しようと襲ってくるでしょうね」

「オニ?オニって何!?っていうか、排除って何!?」

 返答の代わりに、榊は香苗の頭を乱暴に押さえつけて床に屈ませる。それとほぼ同時に振り下ろされた金棒がガラス扉を貫通し、内部に積み上げられていた長机の1つがピンポイントで弾き飛ばされ、2人の頭上ギリギリのところを通過した。様子を見に来た他のゼミメンバーも、派手な音を立てて床に落下する長机を目の当たりにして絶句していた。

「私の後ろに下がっててください」

 床に伏せていた榊が素早く立ち上がると、すぐ様矢筒から矢を抜き取り、狙いを定めた後に矢を放つ。風切り音と共に放たれた矢は金棒で破壊されたガラス扉の隙間を通り抜け、布袋に覆われたオニの頭部に突き刺さった…筈だったが、オニは大したダメージも無い様子で頭の矢を引き抜くと、何事も無かったかのように再び金棒を振り上げた。オニにとっては、頭に止まった蚊を払い除けた程度のことなのだろうか。再び振り下ろされる金棒。今度はガラス全体が木っ端微塵に割れ、それと同時に積み上げられたバリケードが音を立てて崩れていった。オニは自らが破壊したガラスを潜り抜けると、内部に残ったバリケードを足で蹴り飛ばしながらロビーに侵入してきた。
 間近に迫るオニを香苗は冷静に観察した。恐ろしく真っ赤に日焼けした規格外のデブ、としか言いようがない。唯一の衣服である顔に被った薄汚い布袋は、動物…それも恐らく人間の皮膚を幾つか縫って繋げているように見えた。覗き穴が無いので視界は完全に覆われている筈なのだが、不思議なことにこちらの位置は正確に把握していた。次に特徴的だったのが腹の肉だ。床に付きそうな程に脂肪が垂れ下がっていて、恐らくは剥き出しであろう陰部を隠していたので性別の判断も不可能であった。
 再度ヒュンッという風切り音。今度はオニの左胸に矢が刺さったが、やはりダメージは無く矢を抜かれてしまった。床に投げ捨てられた矢の先端にはオニの体液と思しき蛍光色の緑の液体がベッタリと付着していた。

「どうして効かないの!?」

 動揺する榊が叫ぶ。今すぐ全員ここから逃げ出すべきなのだが、誰もが目の前にいる異形の存在の恐怖で足がすくんでいた…1人を除いて。

「選手交代だ、俺が行く。あんなメタボ野郎、俺1人で十分だ」

 磯部だ。いつの間にか両手の拳にテーピングを巻いて、完全に闘争心を剥き出しにしている。

「や、やめた方がいいよ磯部さん。体重差があり過ぎる」

 五木の忠告も空しく、磯部が果敢にオニの正面に向かっていった。身長が180cmある磯部と比べてもまだ大きい。いくら何でも無謀過ぎる。相手がただのメタボ野郎とは思えない。香苗が声を上げて磯部を止めようとするが、突然ロビーに鳴り響く金属の落下音に驚いて言葉が出なかった。磯部が意気揚々と顔面に放った素早いジャブが不意を付いたのか、オニは自慢の金棒を床に落としていたのだ。間髪入れず、2発、3発とジャブが悪趣味な人肉マスク越しに顔面へと叩き込まれる。オニがたじろぎ、数歩後ずさっているのが分かった。これは、もしかしたら勝てるのかもしれないと全員が固唾を飲んで見守っていたその時、磯部が体のひねりを加えて突き出した右ストレートを、オニは巨大な紅葉を連想させる赤い手のひらで受け止めると、そのまま手を閉じた。パキパキッという連続音と共に、オニの手の中で磯部の拳が砕ける。

「があッ!」

 磯部の口から悲痛な叫びが漏れる。指の骨が全てちぐはぐな方向に向いている右手を押さえ、狼狽えている磯部の後腰にオニが素早く両手を回す。そのまま抱擁するような形で磯部がオニの脂肪が垂れ下がった胸に抱き寄せられ、先程聞こえた「拳が砕ける音」を何十倍にも増幅させたような破壊音が磯部の悲鳴と和音になって響き渡った。

「磯部さん!」
 
 香苗が床にゴミのように投げ出された磯部の元に駆けつけようとするが、榊がその腕をとっさに掴む。

「今は逃げましょう、作戦を練るんです」

「…逃、げ、ろお!」

 背中の骨を折られ、床に這い蹲っている磯部が最後の力を振り絞るかのように大声を上げた。その磯部を跨ぎ、床に落ちていた自慢の金棒を拾い上げ、オニが香苗たちの方へと向かってきた。

「必ず助けに行くから!」

 香苗は磯部に向かって叫び、五木や咲の後を追って非常階段を全速力で駆け上がった。地獄のど真ん中を舞台にしたリアルな鬼ごっこが今、始まった。

 

 

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