10時限目 〜冥府〜

 一体何が起きているのか分からなかった。つい数10分前まで、確かに榊和美はあの高校にいた。霧の中から現れる生ける屍と化した学友。廊下を這う気色の悪い軟体生物。教え子を草刈り機で切り刻む教師。地下に巣食う不気味な大樹。どこまでも果てしなく続く青い空。6日間にも渡る悪夢を生き延びたのにも関わらず、休む暇も無く今度は何処かの大学でヤツらと戦っている。おまけに、どういう訳か世間では3年もの月日が経過しているという。

「どうも分が悪いな」

 運転席でハンドルを握る駒沢が車を徐行させつつボヤく。キャンパス内のゾンビは大学生らがA棟と呼ぶ建物の正面玄関に集中していた。その内の何体かが入り口のガラス扉に衝突し、体重を預けるようにだらしなく前方に寄りかかっている。しかし、鍵の掛かっていない上にドアノブの無い、押せば簡単に開く扉を開放するには十分だったようで、既に数体のゾンビがA棟内に侵入しているのが助手席に座っている榊からも見えた。

「もしかしたらクソ教授、とっくに死霊のえじきになっているかもな」

 大学生ら曰く、古池という名の大学教授が今の現象を引き起こした張本人らしい。そこで、当の本人に解決策を聞きに行くというのが今回の計画だったが、その古池が既に死亡しているとなると、危険を冒してここまで来た意味がまるで無くなってしまう。

「とりあえず、何とかして中に入ってみませんか。外にいるヤツらも、私の高校にいたゾンビに比べたら何だか弱そうだし、何とかなりそうな気がするんです」

「参考までに聞いておくが、嬢ちゃんの高校にはどんなゾンビがいたんだ?」

 榊は数日前の事を回想する。

「ええと…バットやスコップを持ってたり、走り回ってたりもしてました」

「何だか死体らしくねえな。どうでも良いが、そいつら全員ゾンビじゃなくて実は生きてる人間でした、ってオチじゃねえだろうな」

 駒沢が悪意に満ちた表情で言う。

「どうあっても私を大量殺人の犯人にしたいんですね。そんなことよりも、今の状況をどうするか考えた方が先決だと思いますけど」

 徐行中の車に興味を惹いたゾンビの何体かが車にヨタヨタと近付いてくる。このまま大勢のゾンビ囲まれてしまったら、車の中だとはいえ安全とはいえなくなってしまう。駒沢はアクセルを噴かしてスピードを上げると、前方にいるゾンビを跳ね飛ばし、急ハンドルを切ってA棟の右側面へと込む。

「正面からは危険過ぎる。避難用の外階段を使うぜ」

 車が急停車し、駒沢がエンジンを切る。鉄製の階段が建物の3分の1程度まで螺旋状に伸びていて、1階部分には簡単に飛び越えられそうな1mほどの鉄扉が申し訳程度に付いているが、ゾンビの侵入を防ぐには十分なものであった。外を彷徨くゾンビの数は正面玄関ほど多くは無い。車は榊の乗る助手席側に横付けされていたので、簡単に階段を経由して建物内部へと入ることが出来そうであった。

「行くぜ、嬢ちゃん」

 駒沢が警棒を伸ばし、外に出る準備をしていた。榊も慌てて後部座席に置いておいた装備一式を手に取る。矢筒を腰に装着し、見慣れた和弓とは違う、自己主張の強いカラーリングが施された洋弓を手に取る。駒沢が外へ飛び出すと同時に榊も素早く車から降り、榊を捕らえようと伸ばされた数本の腐敗した腕を振り切って間近にあった螺旋階段入り口の扉に手を掛けて飛び越える。
 最初の踊り場まで辿り着くとすぐ様振り返り、駒沢をバックアップする為に矢筒から矢を抜いて弦に番えたが、駒沢の行く手を阻んでいたゾンビの数体は既に彼の振り回した警棒で頭頂部を陥没させられ、地面に伏していた。駒沢は榊と同じように鉄扉を軽々と乗り越え、難なく踊り場で榊と合流する。

「気付いてたか?アレ」

 駒沢が階段の手すりから半身を乗りだし、建物上部を指さした。榊は言われるままに上を見上げると、屋上にあたる部分に1人の男性が佇んでいるのが分かった。恐らく、あれが古池教授なのだろう。

「死霊のえじきになっていなかったみたいですね」

 榊の言葉に駒沢が頷くと、今度は駒沢が先陣を切って階段を足早に上っていった。程なくして、階段の終着点に行き着いた。内部へと通じているであろう鉄扉には錆びた南京錠がぶら下げられている。駒沢は鍵束を取り出すと、あらかた目星を付けていたと思われる一番小さな鍵を鍵穴に入れる。

「クソッたれが。鍵はこれで間違いねえんだが、長いこと開けてなかったんだろうな。錆びちまって回りゃしねえ」

「…銃で鍵を撃ってみたらどうです?」

 榊がテレビでよく見る刑事ドラマのノリで言うと、南京錠と格闘している駒沢の動きがピタリと止まり、榊の方に首を向ける。

「くだらねえ刑事ドラマの見過ぎだぜ、嬢ちゃん。鍵ってのはな、そう簡単に壊れねえように出来てんだよ」

 そう言いつつも、駒沢が後腰のベルトから拳銃を取り出している。

「ただ、俺も一度はやってみたかった。跳弾するぜ、踊り場まで下がってな」

 チョウダンと言われても何のことか分からなかったが、榊は素直に階段を降りて踊り場まで戻る。すぐドンッという鈍い銃声と甲高い金属音が轟き、程なくして駒沢の「よっしゃ!」という歓声が聞こえた。リアクションから察するに、くだらない刑事ドラマ通りの展開になったということだろう。

「貴重な1発を使っちまったが、やってみるもんだな」

 駒沢が妙な形に歪んだ南京錠を階段の柵からゾンビ蠢く地上に放り投げると、錆びた鉄扉を開けて建物内へと進入する。扉は廊下の中間地点に通じていた。エレベーターが使えない以上、ここから屋上へ上がるには、建物内の非常階段を使って更に半分以上の階数を上る必要があった。窓から漏れる赤い光に照らされた廊下の先には、おぼつかない足取りで非常階段を上ってきたであろう、片腕の無いゾンビが榊たちを目指してヨタヨタと歩いてきていた。

「早速おでましか」

 駒沢が警棒を手に早足で向かっていくが、榊の放った矢が片腕の脳天を貫通させる方が早かった。

「おい嬢ちゃん、横取りは良くないぜ。」

 心底悔しそうな表情の駒沢。

「より安全な方法を取ったまでです。噛まれたら奴らと同じようになるとは限りませんけど、接近するリスクは出来るだけ避けた方が良いと思うんです」

「悔しいが正論だな」

 駒沢が動かなくなった片腕に近寄ると、頭に刺さった矢を引き抜いて榊へ手渡す。矢の先には脳髄らしき組織がぶら下がっていた。

「そうだ。アイツら1体に付き10ポイント、先に100ポイント獲得した方が勝ちっていうゲームはどうだ?ちなみに俺はさっきの戦闘で30ポイントゲットしてるぜ」

「別に1体に付き1ポイント、先に10ポイント獲得が勝ち、で良いじゃないですか」

「堅えこと言うなよ。人生で一度は100点ってヤツを取ってみたいんだよ」

 確かにテストで100点を取っていたような優等生タイプでは無いな、と榊はこれまでの駒沢の行動を振り返って納得した。
 しかし、それから先は榊も駒沢も得点を獲得することは無かった。非常階段の遙か下からスローペースで追ってくるゾンビどもの唸り声は聞こえたが、わざわざそれを倒しに階段を降りるほど駒沢も愚かでは無かった。

「クソ、あのクソ教授、40も半ばのオッサンにこれだけ階段を上らせやがって。会ったら即ぶっ殺してやる」

 駒沢のゾンビに対する敵意は、いつの間にか屋上にいる古池教授への殺意へと変化したようだ。殺してしまったらそれこそここまで苦労した意味が無くなるのではないか、と榊は意見しようとしたが、駒沢の殺気立つ背中に気圧され思わず口を噤む。

「…ひとつ聞いてもいいか?」

 黙々と階段を上り続ける駒沢が、珍しく真面目なトーンで榊に話し掛ける。

「3年前…嬢ちゃんにとっては“さっき”のことだが、あの時、俺は嬢ちゃんの膝を撃ち抜いた筈だ。その時の傷はどうした?」

 そうだ、と榊の脳裏に山雛高校での記憶が鮮明に甦る。自分は確かに、銃で足を撃たれていた。いや、それ以前にゾンビに腕を噛まれていた記憶もあるし、更にその前には、バケツを頭から被った教師との交戦で大怪我をしていた筈だ。だが、今の自分は何処も負傷していない。混乱する榊の足が思わず止まる。

「混乱させちまったみてえだな。悪かったよ」

 頭を押さえて考え込む榊を見て、駒沢も足を止めた。

「さっきの嬢ちゃんの話を信じるなら、俺の部下を殺したのは嬢ちゃんじゃなくて、嬢ちゃんの体を操っていた別の誰かってことになる。そして、その誰かが嬢ちゃんの傷を治し、3年後の今日に飛ばした」

「誰が…何の為になんでしょうか?」

「俺が知るかよ。人の体をジャックしたり、傷を治して3年後にワープさせたり出来るんだから、きっと普通の人間とは違う超能力者なんだろ」

 超能力者と聞いて榊の脳裏にある人物がよぎる。だが、彼女は既に学校と同化し、この世を去った筈だった。そう考えると、彼女のように不思議な力を持つ人間が他にもいると言うことか。
 駒沢は「俺も昔、スプーン曲げ試したよな」と1人感慨に耽りながら、再び階段を上って行く。かなり疲れているのか、肩で大きく息をしているのが分かった。

「やれやれ、やっと到着か」

 足が棒になる感覚に襲われながら、A棟の最上階へと到達した。屋上へと通じる扉は開け放たれていて、赤い光に照らされたその場所はさながら深紅の照明を浴びたステージを彷彿とさせた。古池と思われる男は柵の無い屋上の縁ギリギリのところで地上を見下ろし、今にも投身自殺を図りそうな様子で立ち尽くしている。

「よくよく学校の屋上に縁があるよな。お前も、俺も」

 皮肉混じりの笑みを浮かべる駒沢が榊に呟くと、腰から拳銃を抜きステージの主役に歩み寄る。

「ジジイ、飛び降りたらぶっ殺すぞ!」

 無茶苦茶な事を叫ぶ駒沢に古池が振り返る。人の良さそうな顔立ちであったが、何だか酷く窶れているようにも見えた。

「見慣れん顔だな。誰だね君たちは」

 駒沢は拳銃を構えたまま、少しずつ古池との距離を詰めていく。

「どっかのイカれた爺さんの、得体の知れない実験に巻き込まれた通りすがりさ。教えろ、ここは一体何処だ」

 古池は依然としてその場を動こうとしない。少しでも突風が吹こうものなら地上へ真っ逆さまであった。

「見て分からないかね。ここは地獄だよ」

 古池が芝居掛かった演技で両手を広げる。その動作が癇に触ったのか、駒沢が大きく舌打ちをする。

「確かに天国には見えねえよ。爺さんの教え子が言ってたぜ。地獄の入り口を広げて、それが現世に溢れたってな」

「逆だよ。地獄が現世に溢れたのではない。現世が地獄に取り込まれたのだ。私はただ、地獄をもっとよく観察する為に、ほんの少しだけ穴を広げたかっただけなんだ。だが、それが思いも寄らぬ現象を引き起こした。この大学のキャンパスそのものが、地獄の世界に引きずり込まれてしまったのだ」

 榊は驚きを隠せなかった。地獄という死後の世界が実在したこと。そして、古池の話を信じるならば、現実世界では何事もなく平穏無事な日常が続いているということになる。

「現世では今頃大騒ぎだろうな。大学が丸ごと地上から消え失せてしまったのだから」

 古池がやけくそ気味な笑みを浮かべた。

「笑ってる場合じゃねえぜ爺さん。つまりアレだろ、死んでもねえのに大学の敷地ごと大霊界へ送られちまったってことだろ?じゃあ、外を歩き回ってる死体どもが餓鬼とかいうのも本当なんだな」

「彼らは現世で大罪を犯した罪人だ。満たされることのない飢餓感によって突き動かされ…」

「んなこたぁどーでもいいんだよ。アンタの教え子の姉ちゃんが、腐ったババアに噛まれて怪我をした。聞くが、奴ら妙な病気とか持ってねえだろうな」

 古池が眉をしかめる。何か思い当たる節でもあるのだろうか。

「…正直なところ何とも言えない。だが、何しろ不潔な連中だ。何か、悪い病原菌を持っていても不思議では無かろう。そして、それが仮に死に至るものだとしたら…」

 榊の胸に不安がよぎる。

「この世界で、我々のような命ある人間が魂を失うということは餓鬼になることと同義だ。個人差はあるだろうが、あの連中と同じように、この世界を永久にさまようことになるだろう」

「回りくどい言い方はよせ。要は噛まれたらゾンビになる可能性が高いってことだろ?」

 駒沢が古池に問いただしたその時だった。先程、南京錠を破壊した時に聞いた銃声と全く同じ音がC棟の方から鳴り響いた。榊はC棟がよく見える位置まで移動するが、ここからでは何が起きているのか全く分からない。しかし、駒沢には何か思い当たる節があったのか、銃を古池に向けたまま顔を歪ませ、歯を強く噛みしめていた。

「…仮説が証明された瞬間だぜ、クソジジイ。アンタの生徒はたった今死んだ。アンタが殺したようなもんだ」

 静かな口調だが、駒沢の頭に相当血が上っているのが榊には分かった。このままでは本当に引き金を引きかねないので、榊は「あの!」と初対面の古池にコンタクトを試みる。

「悪いニュースはもう結構です。それで、元の世界に帰る方法はあるんですか?」
 
「そうだな…現世と地獄を繋ぐ扉が私の研究室に現れるチャンスは後1回だけ残されている。現世の時間軸が地獄と同じならばの話だが、それは深夜0時。私は時計は持ち歩かん主義だ。空間転移が起きてからどれ程の時間が経過したか定かでは無いが、時間にして約22時間後といったところか」

 22時間後。つまり、その時間に古池の研究室に行けば現世へと帰れるということだろうか。この地獄で22時間を過ごすのは些か気の重い話だが、山雛高校で籠城した日数は6日間だ。それに、今回は既にゴール地点が見えている。極端な話、ここの出入り口を全てバリケードで塞ぎ、研究室に籠もっているだけで万事解決なのではないだろうか。

「クソ、7万もした電波時計が止まってやがる。嬢ちゃん、今何時だ」

 地獄では電波も届かぬということか。榊は自分のデジタル式の腕時計を見て時間を読みあげる。AM10:23。時は刻んでいるが、それは世間で言うところの3年前の山雛高校から継続している時間だった。

「そうだな。確かに3年前のあの日はそんくらいの時間だった。チクショウ、正確な時間が分からねえ…いや待て、柏木だ。そうだアイツ確か」

 駒沢がほくそ笑む。何か思い当たる節でもあったのだろうか。

「よし、爺さん。もう邪魔しねえから飛び降りて良いぜ」

 駒沢が薄情なことを言い放つと、拳銃を下ろして屋上を後にしようとしている。

「最後にもうひとつだけ!」

 榊は再びコンタクトを試みる。

「そこまで分かっていて、どうして教授は死のうとしているんですか?確かに、あなたが生徒たちにした事は許されることでは無いかもしれません。でも」

「嬢ちゃん、ほっとけよ」

 駒沢が眉をしかめて榊の言葉を遮る。古池は榊を見据えて小さく溜息を吐く。

「もう、潔く死を選ぶしか道は無いのだ。君らには悪いが、例えあと22時間とはいえ、この地獄で生き抜くことは不可能だ」

 淡々と語る古池の言葉に榊の背筋が凍り付く。

「もうすぐオニが来る。地獄の番人。餓鬼を取り締まる邪悪なオニが」

 視界から古池が消えた。榊は急いで古池が先程まで立っていた縁に駆けつける。恐る恐る下を覗き込むと、正面玄関前に頭部の潰れた古池の遺体が転がっていた。ショックを隠せない榊の隣に駒沢が並ぶ。

「ジジイの野郎、くだらねえ刑事ドラマの犯人みてえにベラベラ喋りやがって。本気で死のうとしてる奴は目を見て分かる。そんな奴にはどんな説得をしても無駄なんだ。それに…」

 古池の亡骸に餓鬼が群がる。外をうろついていた餓鬼は勿論のこと、A棟のエントランスにいた餓鬼も正面玄関を飛び出し、我先にと古池の腕や足にむしゃぶりついた。

「ジジイが餌になってくれたお陰で外が手薄になったぜ。これから俺は外階段から脱出してC棟に向かう。車でガキどもを連れて戻ってくるから、それまでの間に嬢ちゃんはこのA棟の中を綺麗サッパリ掃除しといてくれ。ついでに正面玄関の内鍵も閉めてくれるとありがたい」

 駒沢は榊に早口で指示を伝えると、拳銃を西部劇の登場人物よろしくクルクルと回して屋上入り口を見据える。非常階段をゆっくりと上ってきた何体かの餓鬼が、ようやく屋上に到達しようとしていた。

「よし、ゲームの再開だ」

 駒沢が餓鬼に向かって拳銃を構える。榊もそれに倣い、矢を弓に掛けて力一杯弦を引いた。絶対に生き残る。例え、何が襲って来ようとも。決意を新たに、榊は先陣を切って屋上に足を踏み入れた餓鬼の眉間を目掛けて矢を放った。

 

 

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