伊口 洋平

 駅前の広場は様々な人々が行き交っていた。デートを楽しむ若者のカップルや、子連れの幸せそうな夫婦。スーツを着て何やら余裕の無い表情で足早で歩き去るビジネスマン風の男。部活帰りと思われる制服を着た学生の集団。いつもの平和な、本当にむかつくほど平和な光景。
 伊口はいつものように、モニュメントを囲む円形の植え込みに静かに腰を下ろす。腕時計に目をやると午後4時を回っていた。
 もう3時間以上もこうして駅前にいるが、今日はいくら待っても目ぼしい女が現れない。大人しく風俗にでも行くか、と諦めかけていたその時、伊口の視界に女子大生と思われる2人組が横切った。どちらもスタイルは申し分無く、特に髪をショートボブにしている方の女は顔立ちが伊口の好みのアイドルとよく似ていた。善は急げとばかりに伊口は慌てて腰を上げ、その2人を追う。

「ねえねえ、お姉さんたち、これからお茶でもしない?」

 息を切らしながら背後から声を掛けると、2人組はほぼ同時に振り返る。やはり、どちらも相当にレベルが高い。髪に綺麗なウェーブの掛かった方の女は小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、「ナンパ?」と小声で言うと、ショートボブの娘と顔を見合わせてケタケタと笑いだした。伊口は今までの経験から、この2人組が「押せば何とかなるタイプの女」だという確信を持った。

「そう、ナンパ。今ちょうど暇しててさぁ。どう?近くに美味しいケーキ屋さんがあるんだけど」

「暇なのはいつもでしょ」

 そう言ったのは、ショートボブの方の娘だった。まるで腐ったゴミでも見るかのような、明らかに軽蔑を感じさせる冷たい眼差しである。

「おじさん、昨日も、確かその前も駅前でずっとウロウロしていましたよね。仕事はしてないの?」

 伊口が呆気に取られていると、ショートボブの娘は「もう行こう」と相方を促し、足早に雑踏へと消えていった。
 おじさん、か…。と伊口は今さっき言われた言葉を心の中で反芻しながら歩き始める
 ふと、婦人服の店のショーウインドウに写った自分の姿に目をやる。ボサボサの髪に無精髭。確かにこの格好でナンパとは無謀だったか、と伊口は心から反省する。4日前の同窓会では清潔感のある男を演出するため、直前に美容院へ行ったりもしたのだが、もともと怠け者である自分が毎日鏡の前で綺麗に髭を剃ったり、髪型をヘアワックスでスタイリングするなんてことは出来なかったのだ。
 おまけに、連日続いている悪夢のせいで睡眠が小刻みにしかとれず、目は真っ赤に充血し、瞼の下にはうっすらと隈まで出来ていた。これじゃあ、職質されてもおかしくないな、と伊口は自嘲気味に笑い、さてこれからどうしようかと考えながら再び歩を進める。
 歩きながら、伊口は同窓会のことを思い出す。薄々分かっていたことではあるが、みんな立派な社会人になっていた。中には、結婚して子供がいる者まで。それに比べて、自分はいつまでも親の脛をかじりながら、毎日こうして当てもなく駅前でブラブラとしている。あの晩、「実家の豆腐屋を継いだ」と苦し紛れの嘘を付いてしまったことが酷く恥ずかしかった。実家の仕事なんて、今まで一度も手伝ったことなどないからだ。
 信号で立ち止まる。このまま横断歩道を渡り、裏通りに入れば地元では有名な風俗街があるが、先程まで沸き上がっていた性欲はすっかりと減退していた。それに、いつの間にか空には灰色の雨雲が広がっており、ぽつり、ぽつりと本降りの前兆と思われる大きな雨粒が伊口の肩や路面を濡らし始めていた。伊口は引き返して適当なパチンコ店にでも入ろうかと踵を返そうとするが、横断歩道の向こう側で信号待ちをしている群集の中に、周囲の人間とは明らかに異質な出で立ちの男に目を奪われ、思わずその足を止める。
 極度の肥満体なのだろうか。その男は着ているYシャツのボタンが今にもはち切れそうなほどブクブクに太っており、雨はそこまで降っていないのにも関わらず、1人だけバケツいっぱいの水を頭から被ったかのように全身がずぶ濡れであることは遠目でもはっきりと分かった。そして、健常者のそれとは明らかに異なっている青白い肌の色が何よりも異様な不気味さを醸し出していた。
 信号が青に変わり、止まっていた群集は動き出す。しかし、肥満体の男はその場から一歩も動かず、その場で立ち尽くしていた。しかしそれは伊口も同様であり、好奇心を抑えることが出来ず、本格的に降り始めてきた雨に濡れながらも、直立不動の姿勢のままその不審な男を観察していた。
 無地の白Yシャツに、グレーをベースにしたチェック柄のズボン。最初は気が付かなかったが、それは伊口の母校でもある笠内高校の夏制服に間違いなかった。伊口の動悸が激しくなり、背中を雨以外の厭な液体が濡らしていく。信じられないことに、見れば見るほどその男は“奴”に似ていた。
 雨脚が更に強くなった。伊口は回れ右をし、まるで逃げるかのように足早にその場を立ち去る。人混みを掻き分け、駅前の繁華街まで辿り着くと、雨宿りがてらにパチンコ店へと入った。ホールにいた顔見知りの若い男性店員が伊口に気付き笑顔でこちらに近付いてきたが、伊口は筐体がずらりと並ぶ通路の先から視線を逸らすことが出来なかった。そこに、“奴”が立っていたからだ。 

「いらっしゃいませ。急に降ってきて参っちゃいますよね」

 愛想よく話し掛けてきた店員の言葉を上の空で受け流した伊口は、彼の後方に伸びている通路を指差す。

「おい、学生服がいるぞ。高校生は入店禁止の筈だろ」

 伊口の指差す方へ店員はきょとんとしながら振り返る。しかし、“奴”の姿は店員には見えていないようであった。

「いやだなぁ、伊口さん。学生なんていないじゃないですか」

 店員の後方で“奴”がゆっくりと歩きだしているのが分かった。距離が近付くにつれ、その顔がはっきりと認識出来るようになった。細い切れ長のつり目、横に広い鼻、大きな口。間違いなく、あの頃の五味の顔そのものであったが、顔色が恐ろしく悪いという点が唯一異なっていた。
 店員の真後ろにまで接近しつつある五味と目が合った。光の無い、虚ろな瞳に今まで経験したことのない恐怖を覚えた伊口はすぐさま店を飛び出し、土砂降りの駅前を全力で走った。
 …ふざけんな。何で俺なんだよ。
 伊口は走りながら心の中で毒づく。確かに、あの時は酷いことをしたかもしれない。でも、それは内山田に命令されたからやむを得ずしたことなのだ。復讐するなら、まずはあの暴力教員からだろ。
 …いや違う、と伊口は即座にその考えを振り払う。内山田は、既に奴に復讐されていたのだ。あの同窓会の帰り、内山田が忽然と姿を消したのも今なら納得がいく。自分に暴力を振るった人間を1人残らず、文字通り消し去ることが、恐らく“奴”の復讐なのだ。伊口は自分の血の気が失せていくのを感じながら駅の改札を抜け、ホームへの階段を駆け上ると、すぐ様電光掲示板に目をやる。次の電車があと数分で到着することを確認すると、伊口はいくらか心の落着きを取り戻してきた。
 悪い夢を見すぎたせいで、現実と虚構の区別が付かなくなってしまったのかもしれない。自分にそう言い聞かせながら、髪先からポタポタと垂れる雨と汗の入り交じった滴を肩で拭い、呼吸を整えていると、程なくして電車の到着を告げるアナウンスと走行音が聞こえてきた
 家に帰ったら、とりあえず缶ビールでも飲んでベッドで横になろう。そう考えていたその時、伊口は自分の背後から何かが聞こえていることに気付いた。それは、電車の走行音とは明らかに別のものであり、例えるならば苦痛に悶える人間の呻き声にも似ていた。
 電車がホームに到着する。伊口はゆっくり、恐る恐る振り返ると、予想通り“奴”がそこにいた。獲物を見つけた獣のように、“奴”は両腕を前方に素早く突き出して、伊口の肩に掴み掛かる。 絶叫を上げながら“奴”のでっぷりとした腹を力一杯蹴り飛ばした伊口は、直ぐ様開放中の電車のドアから車内に転がり込んだ。
 ホームでは“奴”が仰向けにだらしなく倒れ込んでいたが、誰も気にも止めていない。

「ふざけんな!元はといえば、悪いのはお前だろうが!!」

 倒れたまま微動だにしない“奴”に向かって叫ぶと、電車のドアがプシューっと音を立てて閉まった。車内にいた大勢の乗客らの視線は、みんな一様に伊口へと注がれている。伊口は彼らを目で威嚇すると、ドアにもたれかかって再度呼吸を整える。電車は既に動きだし、雨粒がガラス窓をひっきりなしに殴り付けていた。
  …あれは幻覚なんかじゃない。どういう理屈なのか、“奴”は生ける屍となってこの世に蘇り、そして自分を…自分たちを消すために復讐をしているのだ。伊口は今自分が置かれている信じがたい状況を再確認すると、ズボンの後ろポケットからスマートフォンを取り出す。このことを今すぐ仲間たちに伝えなければならないという使命感のようなものが沸き上がってきていた。
 悩んだ末、伊口は元部長の喜多村に連絡をしようと電話帳をタップする。ナンパで入手した複数の女性の連絡先が煩わしかったが、すぐに喜多村の連絡先を見つけると直ぐ様電話を掛けた。

「喜多村です」

 数回のコールの後、学生時代から慣れ親しんだ声が電話口から聞こえた。

「喜多村、よく聞いてくれ。内山田先生を消したのは五味だ」

 相手の反応を待たず、伊口は捲し立てるように続ける。

「奴はこの前の大震災で津波に飲まれて死んだ。だが、あの夜に俺たちがやったことを、大人になるまでずっと忘れちゃいなかったんだ。地獄から蘇った奴は、恐らく剣道部のメンバーを1人残らずこの世から消し去るつもりだ

 その時、伊口は自分の肩を何者かがしきりに叩いていることに気付く。振り向くと、偏屈そうな初老の男がそこにいた。

「君ね、電車内で電話するのはマナー違反だろ」

 伊口はスマートフォンを一度下げ、「うっせえぞジジイ!」と一喝して男を追い払う。

「すまん喜多村。とにかく、五味の野郎が、あの頃のままの姿で俺の前に現れたんだ。俺は上手くまいたが、お前も充分に注意した方が良い。それと、どういうわけだか奴の姿は他の人間には」

  “見えていないようだ ”と続けようとしたが、スマートフォンを持っている方の手首を後ろから掴まれ、思わず言葉を詰まらせた。またあの爺さんか、と伊口は大きく舌を鳴らす。

「いい加減にしろクソジジイ!!」

 握られた手を振り払い、振り向き様に怒号を浴びせる…が、眼前にいた相手の姿を見て伊口は車内に響き渡るほどの絶叫を上げた。“奴”が虚ろな目で、口元をニタニタさせながら、電車の揺れなど物ともせずに立っていた。 乗客は、みんな一様に叫び声の主である伊口を注視しているが、やはり彼の前方にいるずぶ濡れの男のことなどは気にもとめていない。“奴”の姿を間近にした伊口は、恐怖のあまりその場から動くことが出来なかった。
 電車が隣駅に到着した。全体重を預けていた扉が開放され、伊口は勢いよく背中から駅のホームへと転倒する。

「大丈夫ですか?」

 乗車待ちをしていた若い女性が仰向けに倒れ込んでいる伊口のそばに駆け寄るが、伊口は声にならない声を上げながら、自分に向かってヨタヨタと歩み寄る“奴”から目を離すことが出来なかった。

「今、駅員さんを呼んできますから!」

 女性がその場から足早に立ち去る。行かないでくれ、と彼女の腕を掴もうとした伊口の手が虚しく宙を切る。電車から一歩外へと踏み出した“奴”がホームとの段差に躓き、伊口に覆い被さるように倒れ込んできた。肺の空気が全て押し出されるほどの強烈な衝撃と、鼻を突くような腐敗臭で伊口の意識が遠いていく。
 ぼんやりとした視界の中には、顎が外れんばかりに開かれた“奴”の大口が自分の首筋に迫っていく様が写し出されていた。

 

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