HR 〜魔女と啓示者〜

 

 無意味な仕事ほど気の滅入るものは無い。そんな事を考えるのは今日1日だけで恐らく100回目にはなりそうだが、男は2ヶ月前に生まれた娘の天使のような笑顔を思い出し、溜息混じりに頭のスイッチを強引に仕事モードへと切り替えた。
 昨日の夜中、黄泉川キャンパスが忽然と姿を消した。後に残されたのはまっさらな土のみ。これが未だ前例の無い怪奇現象であることは誰の目にも明白であったが、どうやら馬鹿な連中は土の下に大学が丸々埋まっていると考えたらしい。要するに地盤沈下ということなのだろうが、男が知る限りこんな地盤沈下は見たことも聞いたことも無かった。
 パワーショベルのエンジンを始動させる音が至る所で聞こえる。休憩は終わりだ。男も自らの愛機に乗り込み、エンジンを始動させる。昔TVで見た「大脱走」のテーマを口笛で吹きながら、堀り進めていた穴にバケットを差し込もうとしたその時、穴の底に人間が横たわっていることに気が付き、男は咄嗟に操作を中断させた。愛機から飛び降り、穴へと近付く。確かに人間、それも女の子だった。

 

「監督、大変です!」

 

 PHSで現場監督に連絡を取り、穴から女が出てきたことを告げる。どうやら大至急、救急車を手配してくれるようであったが、女を発見したことについて他の誰にも喋るなと口止めをされてしまった。
 程なくして、黒塗りのバンが現場を囲っている黄色の立ち入り禁止テープの手前に停車した。中から現れた男数名が担架を運びながらこちらに近付き、挨拶も無しに男が堀り進めていた穴へと入っていく。どうやら、女の子を救出しようとしているようであったが、こんな救急隊は未だ嘗て見たことが無かった。
 不審に思った男は再度監督に連絡を取ろうとPHSを手に取るが、監督が先程停車したバンの近くにいることに気付いてそれを胸ポケットに戻す。監督がハイヤーの運転手のような動作で後部座席のドアを開けると、そこから若い女性が現れた。全く状況が飲めない。男は抗議の為にバンに近付く。

 

「監督、こりゃあ一体」

 

「ここで見たことは誰にも口外しないこと」

 

 監督の隣にいた女が冷淡に告げる。

 

「あなたも、仕事を失ったら困るでしょう?」

 

ゾッとするような笑みをたたえ、女は言った。

 

 

 

 香苗は目を覚ます。視界は牛乳の中を泳いでいるかのように白一色であったが、それが無事に現世へと帰還したことを証明していた。だが、この場所は一体何処なのだろうか。何故、自分は椅子に座らされ、後ろ手に縛られているのだろうか。

 

「目が覚めた?」

 

 聞き覚えのある女の声。

 

「覚えてるでしょ?室岡、室岡弥生。確か心理学の講義で一緒だったわよね」

 

 室岡弥生。やはり、彼女が今回の件に絡んでいたのか。香苗は特に驚いた様子もなく、相手の話を聞き続けることにした。

 

「あまり驚かないのね。となると、大方の予想は付いていたってことかしら。なら、私たちが死後の世界を研究する組織の人間だということも知っていた?」

 

 香苗は耳を疑った。

 

「黄泉の国は実在するのか。それを確かめる為、私たちは日々研究に励んでいるのよ。あなた、目が見えないようだから説明してあげるけど、ここは山雛高校の地下室なの。多くの命が散った、今もっとも死に近い神聖な場所よ。ここが私たち組織の活動の拠点。言ってしまえば秘密基地みたいなものかしら」

 

 室岡は嬉々として語り続ける。組織は地獄を研究する古池教授とコンタクトを取り、彼にあるアドバイスをした。それは、研究室の壁に現れる地獄への穴を広げれば、更に広範囲に渡って地獄が観測出来るというものであり、それを是非、何人かの生徒にも見せて欲しいとも言った。だが、組織の本当の目的は別にあったのだ。

 

「真の目的は観測ではなく、現世の人間を地獄へと送り込むこと。そして、そのうちの何人かを現世へと帰還させること。私たちの予想通り、現世の一部が地獄へと取り込まれ、貴方たちは地獄へと旅立った。貴方は貴重な証言者として、私たちに死後の世界での経験を存分に語ってもらうことになるわ。3年前から計画されていたビックプロジェクトが、ついに実を結んだのよ」

 

 思わず反吐が出そうだった。そんなに地獄が見たいなら、自分たちで行けば良いだけの話ではないか。そんな香苗の心中を察したのか、室岡は鼻で笑う。

 

「そんなに気になるなら自分で行けば良いって?バカね。そんなことして、もし本当に死んじゃったら危ないじゃない」

 

 少しも悪びれた様子もなく、室岡は言った。

 

「あなたたちの生存率を上げる為の苦労を考えたら、逆に感謝して欲しいくらいなのよ。この高校に居た榊和美を3年後の黄泉川大学に飛ばすのだって、寿命が20年ばかし縮まったんだから。でも、あんな小娘でも良い手助けになったでしょ?」

 

 もう限界だった。これ以上、そんな話は聞きたくもない。香苗は椅子から立ち上がろうと、ジタバタともがく。たが、ロープは相当きつく縛られているようで、身動きひとつ取れなかった。

 

「全部証言したら家に帰らせてあげるから、それまではジッとしていなさい。もう記録は始まってるから、いつ証言しても構わないわよ」

 

 人の命を何とも思っていない連中だけに、全部終わったら家に帰れるというのも怪しい話だった。香苗は顔を上げ、息を吸う。そして、ここに来て初めて口を開いた。

 

「…死後の世界?そんなものは、ただの空想の産物よ。死んだら脳への信号が絶たれてジ・エンド。そんな簡単なことも分からないの?」

 

 目は見えなかったが、室岡が絶句しているのが感覚で分かった。香苗は続ける。

 

「キャンパスは、今も地盤沈下で埋まっている。私だけ何とか這い出てこれたけど、まだ多くの仲間が地面の下よ。だから、さっきから貴方が何を言っているのかまるで」

 

 ピシャリ、と頬が打たれ香苗は沈黙した。だが、榊が喝を入れる為にしてくれたものに比べたらまるで熱の入っていない、子供がするような平手打ちだった。

 

「そんな嘘話、私たちが信じると思う?いいわ。こっちにも考えがあるから」

 

 その言葉を最後に、室岡の気配が消えた。そして、代わりに別の誰かが現れる。

 

「あんたを拷問しろとのお達しだ。こういうのは好きじゃないが、証言するまでは何をしても良いと言われてね」

 

 野太い男の声。次の瞬間、香苗は腹部に強い衝撃を受け、椅子ごと後方に倒れ込んだ。その後、何度も何度も顔面を踏み付けられたが、香苗は屈するどころか込み上げる笑い声を押さえられずにいた。
 古池の残した遺書。そこに書かれていた最後の一文を思い出す。

“現世の一部が地獄に空間転移した今回の現象がきっかけとなり、いずれ地獄は現世へと溢れ出すことになるだろう”

 その仮説を証明するかのように、真っ白だった香苗の視界の数ヶ所に赤い点が現れた。それはまるで、半紙に赤の墨汁を垂らすかの如く、じわりじわりと広がっていく。

 

「気持ちの悪い女だ。気でも狂ったのか?」

 

 再び腹を強く蹴られる。だが、尚も笑いは治まらなかった。今なら古池が自殺した本当の理由が分かる。古池は私たち生徒だけでなく、この世界の全ての人間を巻き込んでしまったのだ。やがて、世界中に餓鬼が現れ、人間と死者の戦争が始まるのだろう。後の歴史では“世界ゾンビ大戦”とでも名前が付くのだろうか。視界が赤く染まっていく。
 髪の毛を掴まれ、男は口臭が感じられる程に顔を近付けてきた。

 

「どうだ?証言、する気になったか?」

 

 香苗は口に溜まっていた血反吐を男の顔面と思われる場所に思いっきり吐き出す。その代償として、こめかみを拳で殴られる羽目になったが、それでも香苗の笑いは止まらなかった。忘れもしない、奴らの死臭が僅かに鼻腔を刺激する。地獄は、すぐ側まで来ているのだ。

 

「地獄が見たいの?なら、その目で確かめるといいわ」

 

 言い終えると、香苗の見る世界が全て赤色で染まった。そして、未だかつて経験したことがない程の巨大な揺れが起こった。様々な機材が倒れる音が地下室に響き、男は明らかに狼狽した様子で香苗の髪から手を離す。揺れは収まったが、ただごとではない雰囲気に男が怯えているのが分かった。香苗は男に対し、笑顔のまま言葉を繋ぐ。

 

「一切の望みを捨てなさい」

 

 耳をつんざくような餓鬼の唸り声による多重奏が轟いたのは、その時だった。

 

 

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