9時限目 〜軟体〜

 少年は教室の夢を見ていた。喧噪に身を置いていた日々の記憶。表面的な人間関係に辟易しながらも、他人との接点を懸命に模索していた日々の記憶。永遠にも思えるような時の中で、少しずつ環境に適応しようともがき、苦しんでいた日々の記憶。誰にも打ち明けることのできない悩みを抱えながら。
 最初に怪物を目撃したのは中学生の頃だった。その怪物は、友人の背中に寂しげな表情でしがみついていたが、当の本人は全く気付いていなかった。少年だけにしか見えない存在、それが怪物だった。そして、学校中のあらゆる場所に怪物は姿を現した。特に危害を加える様子は無かったものの、その怪物たちには何か明確な意思があるように見て取れた。日を負うごとに、視認できる怪物の数も多くなっていた。
 いつの日か学校そのものが巨大な肉の塊に見え、心臓のように一定の鼓動を繰り返しているのが分かった。ロープのような血管が張り巡らされた教室。生温かい椅子に机。ブヨブヨと軟らかい床。天井を見上げると、無数の目玉が自分を凝視していた。その日を境に、少年は学校を休むようになったのだ。

 少年は暗闇の中で目を覚ます。ここは一体何処なのか。いや、そもそも自分はいつから眠っていたのだろうか。背中に何か固いものが当たっていて酷く痛む。少年は身を起こそうとするが、自分は既に身を起こしている状態にあることに気が付いた。つまり、自分は立ったまま寝ていたのだ。ようやく思い出した。ここは学校だ。それも、教室の掃除ロッカーの中だ。そうだ。あのサッカー部の奴らに両手を縛られて…
 …それよりも早く帰らなければ。何時間眠っていたのか分からないが、早く帰らないと母親が心配する。

「だ、誰か…」

 自分でも情けなくなるほどのか細い声で、少年は叫んだ。しかし、ロッカーの外は静寂に包まれている。今度はロッカーの扉を思いっきり蹴り上げてみるが、まるでビクともしない。当然だ。このロッカーの扉は、教室の壁に密着している。

「そこに、誰か居るのか?」

 野太い声が外から聞こえ、少年は思わず安堵の溜息を吐いた。まだ、学校に残っている人間が居たのだ。返答の意味を込め、少年は再びロッカーの扉をガンガンと蹴り上げる。
 その時、自分が猛スピードで仰向けに倒れていくのを感じ、背中に強い衝撃が走った。誰かがロッカーを倒したのだ。ロッカーの扉が開かれ、痛みに悶える少年の視界を強烈な光が襲う。そして、それを覗き込む男の姿があった。

「お前、いつからそこに…」

 保田は驚愕の表情で、ロッカーの中に入っていた少年に問いかけた。彼は身を起こそうともがくが、全身が痛んで思うように体が動かせないでいた。
 
「待ってろ」

 両手首の部分に巻かれていたロープを解き、保田は少年の手を握って上半身を起こした。

「大丈夫か?今、仲間を呼んでくる」


 2日目の正午。少年は1−3教室の掃除ロッカーから救出された。かなり衰弱している様子ではあったが、保健室で2人分の食料を平らげた後は大分顔色も良くなっていた。

「おい、そろそろ何か話してくれてもいいだろ」

 保健室のベッドで横たわり沈黙を続けている少年に、保田がウンザリした表情で言う。
 どうも、保田はこの手のタイプが苦手であった。この少年はどうみても、虐められっ子の典型的なタイプだ。ロッカーに閉じ込められていた理由も、恐らくそういうことなのだろう。  

「ロッカーに閉じ込めるなんて、ガキ臭ぇことするよな」

 世にも珍しい“ロッカーで一晩過ごした少年”を見物しにきていた金田が頭をボリボリと掻きながら言った。

「俺なら地下室に閉じ込めるね。あそこはヤバイもんが出るって聞くし、間違いなく気が狂うぜ」

「この学校に地下室なんてあるんですか?」

 同じく少年の様子を見に来ていた榊が冷めた表情で聞いた。

「いや、知らない。でも昔からある、この学校の七不思議の1つなんだぜ」

「残りの6つは何なんですか?」

「……」

 与那嶺の眠るベッドの隣で2人の会話を聞き流していた室岡は、先程から言い寄れぬ不快な気配を感じていた。外で群がるゾンビとは比較にならないほどの強力な波動である。そして、どうやらそれはあの少年から発せられていることが分かった。
 しかし、彼はどうみてもただの少年である。殺意に満ちた悪しき邪念の力は微塵も感じられない。だとすると彼は…

「その子は危険」

 室岡の言葉に保田、榊、金田が一斉に室岡の方を向いた。そして、ベッドで横たわっていた与那嶺の体がピクリと動いた。

「この学校に起こっている怪奇現象は、恐らく全部その子の所為」

 室岡の言葉に全員が凍りつき、時間が止まる。外にいるゾンビの呻き声だけが、唯一の雑音であった。

「…何故、そんなことが言える」

 長い沈黙を破った保田が、唖然とした表情で聞いた。普段はあまり取り乱さない男だが、今回だけは違ったようである。

「私も彼と同じだから。受信できるモノは違うようだけど」

 再び、時が止まる。一体この女は何を受信しているのだろうと、その場にいたほぼ全員が同じ疑問を持った。

「狂言に付き合っている暇は無い」

「狂言、ね。証明してみせてもいいけど、そのデメリットは極めて高そうだからやめとくわ。とにかく、その子はここには置いておけない」

 室岡は言い終えると保健室を後にした。後に残された保田、金田、榊は思わず少年を見つめる。依然として口を開く様子が無い。隣のベッドでは、与那嶺が目を見開き小刻みに震えていた。


 鞘に納まった日本刀を左手に持ち、吉永は息を押し殺していた。職員玄関のバリケードの増強を終え、男子宿直室に帰ろうと廊下を歩き出した時、遥か前方でゾンビのようにフラフラとした足取りで歩く、何者かの姿を目撃したのだ。金色の逆立った髪型から、その人物が4階に拠点を張っている不良グループの1人であることが分かった。彼らが何を企んでいるのかは知らないが、とにかく胸騒ぎがしていた。
 金髪の男が廊下の曲がり角に消えた。吉永は早歩きでそれを追うが、彼の視界には既に男の姿は無かった。

「消えた…」

 そんなバカなと吉永は自分の目を擦る。だが、男の姿は何処にもない。
 吉永が諦め、宿直室に戻ろうとしたその時、振り向いた先には先程の金髪男が居た。その正体は不良グループのリーダー、大林であった。しかし、その顔色は外で騒いでいるゾンビ達の顔色と同一のものだった。

「お前ッ」

 吉永が素早く刀を抜こうと柄に手をかけるが、左腕に電気のような衝撃が走り、刀の入った鞘が床を滑っていった。一瞬、何が起こったのかを把握できなかたが、それは極めて簡単なことであった。大林の手にはアーミーナイフが握られていて、刀を持つ吉永の手を素早く切り裂いたのだ。
 再び、ナイフが水平に振られようとしていた。吉永は後方に体を反らし、それを避ける。ヒュンッと空を切る音が聞こえ、Yシャツの襟元が数センチほど裂けた。今度は、前方にナイフが突き出された。吉永は全身の反射神経をフル稼働させてそれを左に交わすと、ナイフを持つ右手に強烈な膝蹴りを食らわせた。骨の折れる音が聞こえたが、ナイフは依然として握られたままであった。大林が折れた腕をブランブランと振りかぶりながら吉永に切り掛かろうとしたその時、花火のような音が鳴り響き大林の額の一部が弾け飛んだ。一拍置いて、ポカンと開いた額の穴から脳髄が滴り落ち、大林はその場で崩れ落ちる。
 崩れ落ちた大林の先には、池内が黒い光沢を放つものを片手に構え立っていた。その先端からは細い煙が昇っている。 

「別に助けたワケじゃない」

 池内は吉永を睨みながら言うと、構えていた物をベルトに挟んだ。吉永はYシャツを破り、出血している腕に強く巻く。

「今のは一体…」 

「あン?拳銃だよ、拳銃。ネットで設計図拾ったんで作ってみた。実家が製鉄工場だから材料には困らないんだぜ」

 池内は早口で答えると、大林の死体からナイフを捥ぎ取り、死体の横に転がっていた吉永の日本刀に目をやる。

「お前も随分と危ないオモチャを持ってるな。頼むから、それで俺の首を切り落とすような真似はしてくれるなよ」

「お互い様だ。アンタこそ、その気味の悪い銃口を俺に向けたりするなよ」
 
 止血を終えた吉永は刀を拾い上げ、大林の死体をまじまじと眺めた。脳天に開いた穴からは、蛇口を小さく捻ったように、チョロチョロと絶え間なく血液が流れ出ている。廊下に広がる赤い水溜り。

「アンタらのボスは、外にいる連中に噛まれてたのか?」

 池内は首を小さく横に振るう。

「違う。俺の考えでは、恐らく内から侵食された」

「うち?」
 
「そうだ。俺たちは嵌められた。そして、そのことに気付くのも遅すぎた。俺も長くは持たないかも知れない。あれを…あれを食っちまったから」

 池内は額の汗を拭うと、廊下の向こうに目を向ける。銃声を聞いて駆けつけた保田と金田の姿がそこにあった。

「ちょうどいい。特別にお前らにも教えてやる」


 4階、北側廊下。吉永、保田、金田の3人は目の前に広がる光景に絶句していた。そこは青色が支配する世界だった。天井、壁、床、その全てが、青一色で覆われている。そして、それは決して塗料などでは無く、複数の軟体生物の集合体であることが確認できた。一見、ナメクジのようにも見えたが、しばらくして、それは生物の触手の一部であることが判明した。どの生物も8本の触手を持ち、ズルズルと廊下を這いずり回っていた。そう、強いて例えるなら…

「蛸(たこ)だ。俺達は青蛸と呼んでる」

 池内は壁を這っていたコブシ大の青蛸を掴むと、それを無理矢理引き剥がした。8本の足が粘液を滴らせ、ジタバタと空を蹴っている。

「こいつの頭部をよく見てくれ」

 言われるがまま、3人は青蛸の頭部を凝視した。そこには土気色の、人間の耳と思われる器官が1つ、極めて無造作に付けられていた。池内は手に持っていた青蛸を床に放り投げ、新たな1匹を壁から引き剥がし、同じように生物の頭部を3人に見せた。そこには、人間の心臓らしきモノが、ドクドクと脈打つ形で付いている。
 金田は口元を押さえ、込み上げてくる吐き気を懸命に抑えた。一方、保田は中腰にしゃがみ、床を這っている複数の青蛸を冷静に観察していた。

「こいつは眼球、こっちには誰かの右足首が生えてる。だが一体これは何なんだ?」

「アレはまさか…」 

 吉永が天井の蛍光灯を這っていた青蛸を、そっと刀で突付く。ベチャっと音を立てて落ちた青蛸を掴み、その頭部を見て驚愕した。そこには、ルージュを引いた真っ赤な唇が、笑みを浮かべた状態の形で付着…というよりも一体化していた。

「この口紅、保健の芳野先生か…」

「それだけじゃないぜ」

 池内が廊下を進み、地面にいた大きめの一匹を保田達の元へと蹴り上げる。飛んできた青蛸が床に落ちると、3人は頭部に注目する。そこに生えているのは毛深い左腕。そして、手首の部分に付けられたスポーツウォッチが無意味に時を刻んでいた。

「この腕時計!?」

 口元を押さえた金田が驚愕する。この腕は、かつて金田の顧問であった高城の腕であった。3年間も見続けてきたのだから間違いない。
 
「堤先生や黒崎のオッサンの器官は?」

 落ち着いて周囲を見渡している吉永が池内に聞く。

「いや、確認できたのは保健の芳野、そして高城のパーツだけだ」

「この廊下に這ってるモノは、芳野先生と高城の器官がそれぞれ変異した生物ということか」

 吉永の勘の鋭さに、池内はフッと笑う。

「これは俺の勝手な推測だが…芳野と高城は、恐らく何者かによって選出された。選ばれた2人は体中をバラバラに引き裂かれ、内臓も全て取り出され、この気色悪い複数の軟体生物へと変異させられた。器官の1つ1つが意思を持ち、活動している生物に」

「誰が、何の為に?」

 誰もが思う疑問を保田が聞いた。室岡の“自称超能力者発言”を聞いた所為か、多少の狂言には免疫が付いているようにさえ感じていた。

「そんなこと俺が知るかよ。ただ、青蛸を食いまくってた大林は今朝、外の連中みたいになって1階を徘徊していた。多分、この現象を引き起こしている奴は是が非でも俺達全員を…」

「ゾンビにしたいってことか」

 保田の一言に池内が頷く。しかし、保田にはどうしても腑に落ちないことがあった。
 …この生物を食っただと?一体、何の罰ゲームだっていうんだ?
 その時、先程まで必死に吐き気を堪えていた金田が虚ろな目で、床を這っていた青蛸を手に掴み口元へと近付けていく。

「おいバカ、やめろ!」

 吉永が金田の手を掴み、青蛸を払い落とした。金田はハッと我に返り、口元から流れ出ていた涎を拭い去る。

「何だったんだ…今、凄くコイツらが美味そうに見えた…」

「それが青蛸の怖い所だ。もう、ここに居ない方がいい。仲間の成島と北原にも、今日からはこの廊下に近付くなと言ってある」

「俺達のグループと合流しろよ。食料は沢山あるし、何よりお前が居てくれたら心強い」

 吉永が言うと、池内はニヤつきながら無精髭を撫でる。

「まぁリーダーは死んじまったし、悪くは無さそうだな。ちょっと考えさせてくれ」


 保健室。少年はベッドから降り、バリケードの隙間から僅かに見える外の景色を眺めた。

「もう歩いて大丈夫なの?」

 保健室に残っていた榊が心配そうに声を掛ける。少年は振り返り、無表情で頷いた。

「私は榊。あなたと同じ1学年。ここって私以外、みんな年上の人だったから同級生が出来てチョットだけ嬉しいな。あ、本山君って子は1年生だったんだけど昨日死んじゃって…」

「…ざき」

「え?」

「…山崎。僕の名前」

 少年―山崎はぎこちなく笑った。

 

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