8時限目 〜不穏〜

 1階職員室のちょうど正面に位置する男子宿直室。お世辞にも寝心地の良いとは言えない2段ベッドの上で、金田は天井の青白い蛍光灯を凝視していた。佐藤が死んだことを聞かされた後、しばらくは思考を働かせることさえ出来なかったが、少なくとも2週間分の食料を確保出来たことの安堵感から胸を撫で下ろす仲間達の表情を見ているうちに、次第に金田も普段の落ち着きを取り戻していた。
 あれから数時間後、2階調理室にて金田達は最初の食事を取った。今日の調理を担当したのは緒方と榊である。これは金田の個人的な感想であるが、両者とも料理の腕は絶望的であったと言わざるを得ない。正直、何を食べていたのかすら記憶に無い。

「あ、そういえば」

 金田はふとあることを思い出し、身を起こす。下のベッドでは、保田が巨体を横たわらせてイビキを掻いている。決して表には出さなかったが、この男も大分疲弊しているようだ。
 隣の2段ベッドでは、金田の声に反応した吉永、相楽が一体何事だと顔を上げている。

「俺さぁ、佐藤と2人でイイモノ見っけたんだよね」

 金田がベッドから飛び降り、壁に掛けてあった懐中電灯を手に取る。

「イイモノって…エロ本とか?」

 そんなことを平然と言う相楽に金田は呆れ果て「小学5年生か、お前は」と軽蔑の言葉を吐く。

「いいから付いてきなって」


 一方、保健室。ベッドが2つあるこの部屋は、与那嶺と室岡が使用することになっていた。
 先程まで眠り続けていた与那嶺は意識を取り戻し、今は上半身を起こして室岡と現状についての話をしていた。

「それで、大林君たちのグループは今どこに?」

 辛そうに下を向いている与那嶺が、前方に垂れた長い髪の上からこめかみを押さえて聞いた。室岡は、緒方と榊の力作である“お粥によく似たモノ”が載せられた皿を与那嶺の側に置く。

「2年の吉田君の話では4階に拠点を張っているらしいの。侵入して来た者は、有無を言わさず射殺するって」

「射殺って…まさかそんな、冗談でしょ?」

 与那嶺は青ざめた顔で天を仰いだ。

「ところで具合の方はどう?顔、まだ青いけど」

「あの時の後藤さんの悲鳴が…今でも頭の中で、グルグル回っていて…」

 与那嶺が胸を押さえ込み、肩で呼吸をし始める。軽いパニックを起こしているようだった。室岡は与那嶺の肩をそっと掴み、ベッドに横たわらせる。

「ゆっくり寝ていて。大林君達は、私が何とかするから」

 与那嶺が充血した眼で頷くと、震える手で室岡の置いた皿を掴む。

「ごめん。これ、いらない。何か、変な匂いがするし」


 吉田と緒方の眠る女子宿直室から廊下へと顔を出す榊。就寝の邪魔になる廊下の電灯は消されていた為、片手には懐中電灯が握られている。どうしても、不良グループの動向が気になって眠れなかったのだ。ゾンビの呻き声とバリケードを叩く音が耳障りな廊下を歩き、階段を上る。
 ふと、妙な物音を聞きとり、榊は2階の踊り場付近で足を止めた。どうやら2階に誰かがいるらしい。懐中電灯を消し、足音を立てないように廊下を進むと、生物室の隣、生物準備室から灯りが漏れていた。恐る恐る中を覗いてみると、金田、吉永、相楽が長机の上に腰をかけながら何やら談笑をしている。

「あの…何してるんですか?」

 榊の声に3人は一斉に体を硬直させた。室内に置かれている小型冷蔵庫のドアは開け放たれ、中には大量の缶ビールが並んでいた。

「何だ、榊かよ…」

 金田が安堵して溜息を吐いた。相楽と吉永も思わず胸を撫で下ろす。

「凄い、これどうしたんですか?」

 榊が冷蔵庫の中から1本を手に取り、まじまじと眺める。

「堤先生の置き土産ってワケさ。偶然、佐藤と見つけたんだぜ」

 金田が紅潮させた顔で答える。この様子だと既に何本か開けているな、と榊は呆れ果てる。
 …人がいっぱい死んだのに。こんな事態なのに呑気に酒盛りをしていたとは。いや、こんな事態だからこそ飲んでいるのかも。違う、そんなことより…

「先輩達、まだ未成年じゃないですか」

「死体が再登校する世界に法律なんて無いんだよ」

 相楽が訳の判らないことを口走り、もう1本開けようとしている。

「俺は止めたんだがな。こんなのは正気じゃないって」

 そう言う吉永も片手に缶ビールを持っているのだから説得力は皆無である。何を言っても無駄だろう。男と女ではモノの考え方が根本的に違うものなのだ。榊はそう判断した。

「ところで榊は何してんの?こんな夜中に」

 金田の言葉に榊は大いに戸惑い「あ、散歩です」と苦し紛れの嘘を吐く。吉永は何やら難しい顔で、ビールを口に運ぶ。榊が4階へ向かうことに感付いているようである。

「気になるのは分かるが、アイツらのことは放っておけ。その内、向こうから泣きついてくるだろうさ」

 釈然としない表情で黙り込む榊を見て、吉永は死んだ本山の顔を思い出しハッとなった。心配性な点も含め、本山と榊はよく似ていた。それにあの時、金属バットを引きずる音に誰よりも早く気付いたのは本山であった。その言葉にもっと早く耳を貸していれば本山は…

「クソッ」

 襲い掛かる罪悪感と自己嫌悪を振り払い、吉永は空き缶を握りつぶした。そして机から降りると、無言で廊下へと足を進める。それを唖然とした表情で見つめる榊、金田、相楽の3人。

「女1人じゃ、見付かったら何をされるか分からないだろ。俺も行く」

「え、じゃあ俺も…」

 そう言って机から飛び降りた金田が思わずふら付き、前のめりに転倒して両膝を派手に強打した。痛みに悶える金田を見下ろし、相楽が腹を押さえて笑い声を上げている。どうやら相当酔いが回っているようだ。足手まといだと判断した吉永は呆れ顔で2人を一瞥すると、榊と共に生物室を後にした。


 3階から4階へ通じる階段の前で、榊と吉永は息を押し殺し、立ち尽くしていた。大林と池内の会話が頭上から聞こえていたのだ。

「はは…天井に…やがった…」

「こっちにもいたぜ…うまそ……ぜ。ヨダレと…ねえ」
 
 意味不明な会話の後に、クチャクチャと酷く不快な音が鳴り響いた。榊は震える体を押さえ込み階段を上がろうとするが、吉永が腕を掴んでそれを引き止めた。何か、とてつもなく嫌な予感がしていた。

「…イタイ、イタイイタイ…ケテ…スケテ」

 悲痛な泣き声に思わず榊は我が耳を疑った。女性の声。それもよく知る女性だ。間違いない、突然トイレで消失した保健教師の芳野が4階にいる。
 再び、何かを咀嚼するような不快な音が鳴り響く。榊は青ざめた表情で静かに後退り、吉永と共に静かに階段を下りて行った。


「芳野先生が4階にいた?」

 生物準備室。すっかり酔いの冷めた相楽が、頭を抱えて壁にもたれかかっている榊の言葉を反復した。それは良かったね、と相楽は続けようとしたが、目の前の吉永が珍しく動揺しているのを見て、今まで以上に異常な事態が起きているのだと確信した。榊は震える声で続ける。

「もしかしたら他の…堤先生や高城先生も4階にいるのかもしれません」

 “高城”の名前を聞いた金田は頭に血が上るのを感じた。教頭の若宮がゾンビ化した時、真っ先に逃げ出したのが野球部顧問の高城である。とりあえず一発殴ってやりたい気持ちでいっぱいであった。

「でも、何で先生達が大林のグループと一緒にいるんだ?」

 金田が問うと、吉永は僅かに聞こえた大林と池内の会話を思い出し、背筋が凍りつくのを感じた。そんなバカな話はあるワケないが…

「アイツら…先生達はきっと餌なんだ。大林達は教師を食って生活する気なんだよ」

 言い終えると、吉永は生まれて初めての経験をした。自分が言い放った言葉の滑稽さに耐えきれず、己が笑い出してしまうという経験。
 相楽が眉を顰め、小さく被りを振ると1人廊下へと歩き出した。

「今日は…何だか色々あって疲れたよ。先に戻ってる」


 
 階段を下り、男子宿直室に向かって歩き出す相楽は、暗闇の向こう、東口方面に見える防火シャッターを見てピタリと足を止めた。今日、あのシャッターの向こうで2人の命が失われたことを思い出す。後藤も、そして佐藤もゾンビになってしまった。その時、相楽の脳裏に忌まわしき記憶が甦った。
 …佐藤は、佐藤はゾンビに噛まれてなんかいなかった。だから、えーと、つまり、その、あの時…自分が包丁で刺した、佐藤の手は…手は…

「痛っ」

 急に相楽は足首に激痛を感じ、その場に座り込む。佐藤に掴まれ、軽症を負った足に巻かれた包帯を解くと、そこには無数の蛆虫が傷口を埋め尽くすように蠢いていた。相楽はショックのあまり声も出なかった。急いで手に持っていた包帯で蛆虫を払い除けるが、傷口からは次々と新たな蛆虫が這い出てくる。相楽はゼェゼェと息を切らしながら、今度は震える指で傷口を滅茶苦茶に穿り返した。周囲に蛆虫が散乱する。
 相楽は涙で濡れた目で血と蛆に塗れた己の手の平を凝視し、突然狂ったような笑い声を上げた。
 …なぁんだ。やっぱり、佐藤はゾンビに噛まれていたんじゃないか。その証拠に、奴の爪を通して自分はバッチリ感染した。悩む必要など無かった。自分は無罪だったのだ。
 
「お前、何…やってんだ?」

 笑い声を聞き付けた吉永が、廊下に座り込んでいる相楽の肩をグイっと掴む。相楽はそれを払い除けると、無言で立ち上がり男子宿直室に向かってフラフラと歩き出した。

 

 

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