吉永は校舎2階にいた。さすがに完全下校時刻を1時間過ぎた今となっては、校舎に残っている生徒は全く見当たらない。いい加減諦めかけていたその時、吉永は煙の匂いを嗅ぎとった。それと同時に、近くの男子トイレから派手な笑い声が巻き起こった。 不審に思い、吉永は男子トイレへと向かう。中に入るとそこには4人の男子がしゃがみ込んで、煙草を咥えながら雑談をしていた。彼らは町内で有名な不良グループである。その中のアフロ頭の男が吉永に気付き、思わず立ち上がった。
「剣道部はくせーから近寄んなバカ」
2年生の成島だった。全国大会優勝経験を持つ吉永の名前は、既に全校生徒の間で知れ渡っているようである。吉永はトイレに入ったことを猛烈に後悔しながらも、成島の痣だらけの顔面を睨みながら言う。
「トイレに座ってるお前らの方がくせーんだよバカ」
その言葉にキレたのか、肩まで伸びた長髪の男…同じく2年の北原が立ち上がり、吉永に近寄る。
「おい剣道バカ、何か言ったか?」
学ランの襟元を掴まれた吉永は、沸き上がる怒りを抑えきれなくなり、力一杯男の股間に蹴りを食らわした。北原は即座にトイレの床に倒れて呻き始めた。
「北原!」
成島が即座に立ち上がる。
「やめろ」
奥にしゃがんでいた金髪の男が言うとメンバーの動きが止まった。金髪の男は煙草をトイレの窓から捨てると立ち上がり、吉永の目の前までツカツカと歩み寄る。彼の名前もまた、校内で知らない者はいない。
「大林さん、やっちまおうぜこんな奴」
大林、と呼ばれた男は成島に「黙ってろ」と告げる。
「ションベンしに来たんだろ?さっさとしろや」
吉永はようやく目的を思い出し、大林にことの成り行きを説明した。外に出ると危険だから出るな、そう告げるとメンバーの爆笑がトイレ内に響いた。
「外に出るなって…イカレてんのか?」
大林も苦笑いしながら吉永にそう言い放つ。しかし吉永にとってこのリアクションは当然のものだった。こんな状況、恐らく自分でも信じないだろう。
「そこの窓から何か聞こえないか?」
吉永は、先ほど大林が煙草を捨てた窓を指差しながら言う。
「何も聞こえねぇよ」
「真面目に聞け」
吉永の真剣な眼差しに気圧された大林はトイレの窓の方へ向かった。幾つにも重なった獣の呻き声が聞こえる。
「何だ?」
大林の隣に座っていた髭面の男、池内が不思議に思い、窓から下を覗く。濃霧でほとんど見えなかったが、微かに見えたその光景に絶句した。何百人もの人間が呻き声を上げながらデモ行進を行っているかのように見えた。
「ありゃ何だよ!」
先ほど吉永に股間を蹴られて涙目になっている北原が、再び吉永の襟を掴んで叫んだ。
「あれはこの学校の生徒だ。俺の目の前で生徒が1人、あれに食われて 死んだ。信じる信じないは勝手だけどな」
メンバーは沈黙に包まれる。
「言いたかったのはそれだけだ、じゃあな」
吉永はトイレを後にし、廊下を歩いていると見覚えのある姿が目の前を横切った。
「本山」
本山は吉永の声に気付き立ち止まる。ボロボロの板数十枚と釘の大量に入ったプラスチックケース、それにトンカチまで持っていた。
「あ、吉永先輩」
「お前何持ってんだ?」
「文化祭の出し物の余りです。これでバリケードを作るんですよ」
吉永が聞くと本山は答えた。
「それより先輩、さっき2−1の教室から話し声が聞こえましたよ」
本山が報告すると、吉永は「わかった」と告げて溜息をついた。先ほどの不良グループとの絡みで吉永の精神は疲れきっていた。 「1階の方はお前と相楽で頼むぜ。後は先生たちの指示を待つんだ」
本山は頷き、階段を降りていった。
相楽はさっきまでいた場所を離れて、正面玄関に向かっていた。外から悲鳴らしき声が、微かに聞こえたからだ。まさかと思ったが、その予感は見事的中していた。外から小柄な女子生徒が必死にガラスを叩いていた。その顔はゾンビとは違っていて、明らかに通常の人間の顔色であった。
「大変だ…」
相楽は急いで正面玄関に積み上げた机を崩していく。その音に駆けつけた教師、堤も一緒に机やロッカーを撤去する。窓の向こうでは女子生徒が手に持っていた、布に包まれた長い棒でゾンビを追い払っていた。相楽は即座にそれが弓道部の使う弓であることが分かった。剣道場のすぐ隣が弓道場だった為、それに見慣れていたからだ。
「おい!ドアを開けろ!」
堤が怒鳴ると、相楽は急いで正面玄関の扉を開いた。その隙間から弓を持った女子生徒が滑り込むと、相楽が急いで扉を閉める。しかし扉は最後まで閉まらなかった。
「うわっ」 相楽はその光景に思わず絶句した。扉が閉まらなかった理由は、1体のゾンビの突き出した腕が、そこに挟まっていたからだ。相楽は腰を抜かしたようにそこから離れるが、堤は強引にその扉を閉じようと力を込めた。
「クッ!」
ピシャッと音を立てて扉は閉まったが、同時に挟まっていた腕が砕ける音が響いた。よく見ると、扉には学ランの袖の部分が挟まったままであったが、あるはずの腕がそこには無かった。扉に切断された血塗れの腕が床に無造作に転がっている。相楽は急いで崩したバリケードを再び積み上げていく。
「おい、大丈夫か?」
堤が女子生徒に話かける。女子生徒は暫くしゃがみ込んだままであったが、布に包まれた弓を掴むと立ち上がった。
「あの、あ、あれは一体なんなんですか?」
女子生徒の質問に堤は「わからん」と投げやりに答えた。
「1年の弓道部員?」 相楽はバリケードを積み終えると、女子生徒にそう聞いた。
「はい…榊です。みんなが帰った後、1人で練習してたんですけど…」
「まぁ、無事でなによりだな」
堤がそう言い終えると、本山が廊下の向こうから手に大荷物を持って現れた。それを見て相楽は自分のやるべき仕事を思い出す。
「先生、俺たちは校内をバリケードで封鎖します」
「バリケード?」
「板と釘で窓を塞ぐんですよ。あのままじゃガラスが割れて奴らが侵入してきますから」
堤はなるほど、といった面持ちで頷く。
「そりゃ名案だな。よし、俺も後で手伝いに行くから待ってろ」
相楽と合流した本山は、廊下に大量に並んだ窓の1つに大きな板を押さえつけていた。窓の外では相変わらずゾンビが窓をバンバンと叩いている。相楽が釘とハンマーを持ち、それを打ちつけようと振りかぶった。
「…先輩、かなり今更なんですけど、校舎の壁に直接釘を刺しちゃうんですか?傷つけちゃって怒られませんかね?」
本山の急な質問に相楽の動きが止まる。
「う、確かにそうかも…あーでも堤先生にも許可は取ったし、この際イイんじゃない?」
相楽は適当に誤魔化すとハンマーを振るった。
職員玄関前では芳野と高城が協力して若宮を担架に乗せていた。その様子を金田と佐藤が見守る。
「高城監督、これからどうするんスか?」
金田が、かつて自分と佐藤が所属していた野球部の顧問の高城に聞いた。しかし高城は今にも泣き出しそうな顔をして、金田の質問には答えようとしなかった。
「金田、ありゃもう駄目だ」
佐藤が軽蔑の眼差しを高城に向けながら小声で言う。
「あれは俺たちの知ってる監督じゃないよ。…それにしても若ハゲの奴、まるで死人だな」
佐藤が担架に乗せられた若宮に近づく。その顔は青白く、眼を開いたままビクともしない。口の端からは血の混じった涎が糸を引いていた。
「マズイ状態だわ」
芳野が言う。
「応急処置をしなければ」
芳野が若宮の出血を止めようと首筋に手を掛けると、若宮の体が僅かに動いた。金田は何かを察知したのか、芳野の腕を掴み、若宮から遠ざける。
「何だか嫌な予感が…あくまで予感ですけどね」
次の瞬間、若宮が上半身を急スピードで起こし、口を大きく開けた。明らかに先程の若宮とは様子が違っていた。4人が即座にその場から離れる。
「に、逃げろ!!!!」
高城が叫び、廊下の奥に走り去ってしまった。若宮だったモノが立ち上がると、両手を突き出しながら金田、佐藤、芳野の3人の前にヨタヨタと歩み寄ってきた。
「きょ、教頭先生…どうして」
芳野が口を両手で覆いながら叫ぶ。金田は急いで廊下に設置されている消火器を取り外し、両手で持ちながら頭上に構える。
「教頭、ごめん」
金田がかつて若宮だったモノの前頭部に力一杯消火器を振り下ろした。頭蓋骨が砕ける音が消火器を通して伝わってくるのを金田は感じた。若宮が前のめりに倒れると、パックリと割れた禿頭から脳髄が滴り落ちる。芳野は口元を押さえると、すぐに近くの職員トイレに駆け込んだ。
「こりゃマジで悪夢だな」
金田が血まみれの消火器を元にあった場所に戻しながら佐藤に呟く。
「今すぐ逃げ出したい気分だよ、俺は」
「何か用ですか?」
2−1の教室に残っていた男子生徒が吉永に尋ねる。男子生徒は正面にいる女子生徒と話し込んでいたようだ。
「教室に残っているのは君達2人だけ?」
吉永が聞くと、女子生徒は「そうですけど」と答える。
「何かあったんですか?」
「外で男子生徒が食い殺された」
突然割って入ってきたのは保田だった。
「は?」
男子生徒は馬鹿でも見るような目付きで保田を見る。吉永も保田のあまりにストレートな言い方に呆れているようだ。
「いいか、絶対に外に出るなよ」
それだけ言い残すと、保田は教室の外に出て行ってしまった。慌てて吉永がその後を追う。教室には唖然としている2人だけが残された。
「なんつーか、もっと丁寧に説明した方が良かったんじゃないか?」
吉永が保田に尋ねたが、保田は表情一つ変えずに吉永を一瞥した。
「どうせ信じるもんか。3階の呼びかけは終わったからこれで校内に残った生徒が外に出る危険性は無くなった。後は先生の指示を待とう」
1階に降りると、正面玄関前の広場に相楽と本山が何か深刻な様子で話し合っていた。
「どうした?」
吉永が声を掛けると、相楽が振り向き、真っ青な顔で呟いた。
「先生が消えちまった…」
|