〜14時限目 鳴鐘〜

 壁に半身を預けながら、長い廊下を進む与那嶺。火災報知のベルは突然ピタリと音を止め、今や校内は物音ひとつしていない。それはまるで、地面でやかましい鳴き声を上げていた蝉が突然誰かに踏み潰されたような不吉な静寂さであった。与那嶺の全身に悪寒が走る。手足は異常なまでにガクガクと震え、肩が大きな上下運動を繰り返すほどに呼吸は荒かった。
 …発作が、発作が起きた!完全に治り掛けていたのに!?薬、クスリは…
 頓服を探そうとスカートのポケットを乱雑に探るが、薬はとうの昔に切れていた。その事実に強烈な目眩が与那嶺を襲い、視界に写る廊下の先の景色がグニャリと歪んだ。
 …落ち着け、冷静になれ。私にはまだ、生徒会長としての仕事が残っている。
 右手に握られたハサミを、汗ばんだ手でギュッと握り締めた。
 
 
 女子宿直室。榊の帰りを待つ山崎は、自分にしか見ることの出来ない“何か”と対話していた。
 
「そうか、寂しかったんだね。どんなに君が愛情を持って接しても、子供達は遅かれ早かれ、学校を去っていく。今も昔もそれは変わらない。延々と繰り返されてきたことだから」
 
 山崎は全てを把握した。何故、生徒が生ける屍となり、教師が怪物へと変貌したのか。そして、この馬鹿げた授業を終わらす唯一の方法も。

「君の本体は何処にあるの?まぁ、それを確かめる手段は簡単だよね。だって…」
 
 言い終えるよりも先に、宿直室の扉が大きな音を立てて開いた。山崎はてっきり榊が無事に帰ってきたものだと思い、嬉しさを露にして振り向いたが、そこにいたのは山崎の予想を大きく外す人物だった。

「生徒会長?…具合は大丈夫なんですか?」

 与那嶺は白い顔で山崎を一瞥すると、フラフラとした足取りで部屋の中に入ってきた。
 
 
 榊は左肩に深く刺さっているノコギリの破片を絶叫と共に引き抜いた。鮮血が廊下を染めていく。今まで経験したことのない強烈な激痛に、榊の意識が朦朧とする。止め処なく溢れ出る血液がブラウスを真紅に染めていく。榊は左肩を右手で強く圧迫しながら立ち上がると、1階へと続く階段をふらつく足で下っていく。室岡たちを探す前に、保健室へ行って傷口を塞ぐ必要があると考えたのである。
 …与那嶺先輩、血とか大丈夫かな。傷口縫うの、手伝ってほしいんだけどな。
 血塗れの手で保健室の扉を開けると、ベッドで寝ていた筈の与那嶺がいなかった。榊は言い寄れぬ不安に駆られながらも、戸棚から消毒液のビンを取り出し、蓋を開ける。ベッドに腰を掛け、榊は一瞬戸惑ったものの意を決しブラウスの上から乱暴に消毒液を左肩に浴びせた。保健室に榊の呻き声が反響する。痛みのあまりビンを取り落とし、足元で音を立てて割れる。ひとしきりのた打ち回った後、榊は思わず独り言を叫んでいた。
  
「もうっ 家に帰してよ!」

 その直後、まるで榊の叫びに呼応するかのようなタイミングで、「ぐうっ」という鈍い音が廊下から漏れた。榊は宿直室に山崎を残してきたことを思い出し、急いで廊下へと飛び出す。まだ校内にゾンビ、もしくは殺人鬼が残っていて、山崎はそれに襲われたのだという最悪のシナリオを想定していた。痛みも忘れ全速力で廊下を走り、女子宿直室の前に辿りつくと榊は思わず言葉を失った。扉は開かれていたため、中の光景がすぐに視界に飛び込んできた。与那嶺が山崎の上に馬乗りになり、ハサミを何度も何度も山崎の胸に突き刺していた。床の上を山崎の血液がウネウネと這って行く。顔面に鮮血を浴びている与那嶺は満面の笑みでハサミを振りかざしていた。

「な、何で…?」

 震える榊の言葉に反応し、与那嶺は山崎の体から降りて立ち上がる。狂気の表情でハサミを指でクルクルと振り回していた。

「大丈夫、もう全部終わったから。悪魔は私が倒したから。これでみんな元通りよ。霧も晴れてきて、美しい青空が校舎を包み込んでいるわ。榊さんも見てみなさいよ、ほら」

 与那嶺は今までに見せたことも無い爽やかな笑みで、窓から外を見上げる。当然、榊の目には美しい青空など映ることはなかった。それ以前に、今は夜中の筈だ。

「私聞いていたの。山崎君がロッカーから発見された日、保健室で室岡さんが言っていたこと」

 室岡先輩の言葉?榊は一体、与那嶺が何を言っているのか理解出来なかった。

「“その子は危険だ、この学校に起こっている怪奇現象は恐らく全部その子の所為” 室岡さんはこう言ったわ。隣のベッドで、ちゃあんと聞いてたんだからぁあ」

 与那嶺は笑いを堪えるのに必死のようで、小刻みに体を揺らしながらこちらに近付いてくる。榊は自分を落ち着かせるために大きく息を吐いた。山崎は目を大きく見開いたままグッタリとしている。

「なに、まだその子が気になるの?もしかして、あなたもやつらのなか」

 言い終えるよりも先に、榊は自由の利く右手で与那嶺の頬を平手打ちしていた。

「先輩、正気に戻ってください。山崎君を殺したからって、何も…何も解決なんかしません!」

 尊敬していた生徒会長の、あまりに惨めで醜い姿を目にした榊は、溢れる涙を堪えながら、今度は拳を握り締めて与那嶺の側頭部を力いっぱい殴った。吹っ飛ばされた与那嶺は壁に大きく体を打ちつけ、呻きながら床に倒れ込んだ。榊は急いで山崎の側に駆け寄ると、ハサミでYシャツごとズタズタにされた胸に手を当てて止血をしようとする。

「…えるもの…真実…とは…らない」

 山崎が大量の血液を吐き出しながら、何かを呟いていた。

「目に…見えるもの、全てが真実とは、限らない…。それ、を覚えていて」

 言い終えると同時に、山崎は静かに目を閉じた。榊は山崎の脈が無いことを確認すると、思わず壊れたように泣き崩れた。
 …また1人死んだ。一体、これからどうすればいいの?見えるもの全てが真実じゃない?一体どういうことなの?
 山崎の遺体をベッドに寝かせて布団を被せると、先ほどまで床に倒れていた与那嶺が居ないことに気が付いた。榊が廊下へと出ると、与那嶺の進んだ道が簡単に把握できた。彼女が全身に浴びた山崎の返り血が、道標となっていたからである。

 
 …帰れる。帰れる。青い空、白い雲、太陽の光、全てが私を祝福してくれる。
与那嶺は軽やかな足取りで、校舎の正面玄関口へと向かっていた。到着すると、積み上げられた机や椅子のバリケードを鬼気迫る表情で崩していた。

「駄目です!先輩っ!!」

 校内に響き渡るほどの絶叫を上げたのは榊であった。バリケードを崩し終えた与那嶺が、大扉に手を掛けていたのである。榊の方へと振り返った与那嶺が、力なく手招きをする。

「榊さんも一緒に帰る?よかったら、買い物でも寄って行かない?」

 与那嶺は満面の笑みを浮かべ、扉を大きくスライドさせた。次の瞬間、外でひたすら待ち続けていた大量の生徒達…ゾンビの群れ群れが与那嶺を捕らえ、暗闇へと引きずり込んだ。榊は声にならない声を上げながら、急いで与那嶺の体に掴みかかるが、ゾンビたちの強烈な力によって自分までもが外に放り出されてしまった。コンクリートの地面に背中から落ちた榊は、すぐに立ち上がって校舎に入ろうとするが、後ろから右腕をグイっと掴まれ、二の腕の部分の肉が裂ける感触を感じる。
 …痛っ 噛まれたっ、噛まれた!もう、もうオシマイだ…私もゾンビに!
 押し寄せる絶望感を振り払い、榊は力を振り絞って校舎へと逃げ込む。チラリと後ろを振り返ると、与那嶺がゲラゲラと笑い声を上げながらゾンビ達に頚動脈を裂かれていた。ゾンビ達は崩されたバリケードを踏み越え、溢れるように昇降口へと侵入してきた。榊は廊下を死に物狂いで走り、宿直室に駆け込むと急いで扉を閉めた。そして、流血が迸る右腕で入り口付近に置いてあった掃除ロッカーを横に倒してバリケードにする。しかし、榊は分かっていた。あれだけの数のゾンビが押し寄せてきたら、掃除ロッカー程度の重量ではどうにもならないということを。藁にも縋る思いで、机の上に充電器と共に置いてあった無線機を掴み取ると即座に電源を入れて口元に押し当てる。

「誰か、まだ生きてる人はいますか?大変なんです、玄関のバリケードが破られて…」

 だが、無情にも応答は無い。

「誰か、お願い…」

 榊の意識が遠のいていく。ノコギリの刺さった左肩とゾンビに食い千切られた右腕の強烈な痛みが脳髄を絶え間なく刺激している。

「だれ、か…」

 無線機を机の上に戻す。榊は廊下を闊歩するゾンビと戦うことも、体を襲う激痛に抗うことも止めた。もう、全てが終わりだということは明白だった。山崎から流れ出た血液の濡らす床にそっと膝を抱えて座り込み、ゾンビの呻き声に耳を澄ます。朦朧とする意識の中では、まるで生徒達が楽しそうに談笑しながら廊下を歩いているように感じられた。それは、いつもの平和な山雛高校の日常であった。

「ゾンビになるのも、悪くはないかな」

 榊は自嘲気味に笑うと、窓の外の景色を見上げる。晴れない霧が、鮮やかな月光を溶かし込んでいた。
 …せめて、もう一度だけ青空が見たかったな。
 生徒達の談笑が、徐々に榊のいる宿直室へと近付いていた。
 
 
 30分は経っただろうか。何故か、ゾンビ達は宿直室には目もくれずに何処か別の場所を目指して立ち去っていった。榊は傷口が紫色に変色した右腕を目元に上げ、傷口をまじまじと見つめる。痛みもあるし、意識ははっきりとしていた。まだ自分がゾンビになっていないことを確認した榊は、ゾンビ達が何処に向かったのかが妙に気になり、廊下へと顔を出す。すぐ目の前を、首筋を真紅に染めた1人の女子生徒がフラフラとした足どりで歩いていた。榊はそれがすぐに、先ほどゾンビの波に飲まれて頚動脈を噛み千切られた与那嶺であることが分かった。一瞬、その白濁とした瞳が榊を捉えたが、まるで興味を示さずに他のゾンビと同様、何処かへと向かって去って行ってしまった。
 …どういうことなの?
 榊にはずっと気になっていたことがあった。それは、ゾンビ達の目的である。相楽が得意気に解説していたことがあったが、どうも奴らは己の食欲を満たす為に人肉を食らうらしい。
 だが、本当にそうなのだろうか?榊は、この6日間で起こったことを回想する。ゾンビの群れに飲み込まれた後藤や本山、そして与那嶺。あれだけの数のゾンビに襲われたにも関わらず、3人は僅かな噛み傷を残しただけでゾンビとなった。奴らの目的が食欲を満たすことなら、3人はバラバラに解体されてゾンビの胃袋に納まっていると考えるのが妥当なのに。殺人鬼と化した教師の目的もよくわからない。堤先生と対峙した時には一見して明確な殺意があるように感じられたが、思い返してみれば絶妙に急所を外していた。それに3階のトイレに残されていた北原の腕。殺すつもりなら、真っ先に首を切り落とすものではないのだろうか。殺人鬼の目的は、生きたまま“何処か”に連れて行くことなのか。
 …何か分かるかも知れない。
 榊は事件の真相に近付いていることを直感的に悟り、前方を歩く“与那嶺だったもの”の後を追った。


 丁度、校舎の端から端まで歩いたのだろうか。与那嶺は榊の方に振り返ることもなく、鮮血の滴らせながら何処かへと歩み続けていた。榊の視界に、首筋を流血で染めて苦悶の表情のまま息絶えている池内の姿が目に入る。その右手には極めて歪な形をした手製の拳銃が握られていた。榊はそっとしゃがみ込み、死後硬直状態にある池内の手の指を強引に抉じ開けて拳銃を奪う。与那嶺は池内の死体の目の前にある備品倉庫に入って行くと、やがて暗闇に吸い込まれるように消えていった。榊は拳銃の冷たい感触を感じ取りながら、与那嶺の後を追う。入り口付近で何かに躓く。右手首を失った北原の遺体だった。
 …死、死、死。本当に、今この学校で生きてるのは私だけなの?
 榊は目眩を堪えながらも前に進む。次の瞬間、榊は宙に浮いていた。正確に言うと、床にポッカリと空いた長方形の穴に頭から転落していた。2メートルぐらいの高さから落ちたものの、不思議と痛みは無かった。床が、寝室のウォーターベッドのように柔らかかったのだ。その巨大な部屋は、奇妙な青白い光によって覆われていた。榊は倒れた体を起こすと、床が柔らかかった理由を即座に理解した。何十人もの生徒が床にぎっしりと敷き詰められていた。いや、床だけでは無かった。壁や天井、先ほど榊が落下してきた細い長方形の穴を除く全ての箇所に、隙間なく生徒たちが張り付き、積み重なっていた。そして、その誰もが完全に息絶えているというわけではなく、虚ろな表情で“何か”をボンヤリと見つめていた。
 …侵入してきたゾンビたちは、1匹残らずこの部屋に雪崩れ込んできたのね。でも、一体どうして?

「さかきさん…」

 自分の名前を呼ばれ、榊は体を硬直させた。声の方に首を向けると、他の生徒ら同様、壁と一体化している室岡の姿があった。

「室岡先輩!?」

 榊は生徒の肉体で構築された床を走り、室岡の元へと向かう。教師松島を葬り、視力も聴力も完全に失った筈の室岡だったが、今はそのどちらも不思議と回復していた。

「学校の意思が分かったの。それは凄く単純でバカらしい。だけど、とても純粋なもの」

 室岡はボンヤリとした目付きで榊に語りかける。

 榊にも分かっていた。今、この部屋の状況を見て全てのピースが合致した。要するに、そういうことなのだ。学校は、もう生徒を手放したくなかった。卒業させたくなかった。だから、生徒を一種の洗脳状態―ゾンビにさせ、自らの胎内に取り込んだ。ゾンビが噛み付くのは食欲を満たすためではなく、単純に仲間を増やすための行為だったのだ。その証拠に、既に感染していた榊に与那嶺は何の興味も示さなかった。
 だが、大人だけは対象外だった。学校は教師らを様々な形に変異させ、しぶとく生き残っていた生徒達…つまり学校に立て篭もっていた榊達を半ば強引に取り込む計画に出た。ある教師は気色の悪い軟体動物…青蛸に変異させられ生徒を内側から侵食していき、またある教師は残虐非道な殺人鬼…バケツ頭となって生徒に重症を負わせ、この部屋に連れて来た。

「この地下室は学校の意思の根幹、心臓部ってワケですね」

 榊が言うと室岡は頷いた。

「全て終わらすの。あなただけでも、生き延びて」

 他の生徒は部屋にある“何か”に見入っているようだが、室岡は必死に自分の意識を保とうとしていた。榊にも、段々とそれが視覚情報として脳に伝わってきた。さっきまでは見えなかったが、部屋の中央に巨大な木の幹が聳え立っていた。普通の大木と違うのは、直径1メートルほどの巨大な眼球が付いていて、しきりに瞬きを繰り返していることである。先程まで見えなかった物が見えた。それは榊の感染が進行していて、徐々に学校と同化を始めている証拠でもあった。
 榊は雑念を払う為に頭を横に振るい、両手で拳銃を構える。その巨大な眼球を目標に定めて。

「…教えてください。私が全てを終わらせたら、先輩達はどうなるんですか?」

 室岡は暫く黙っていたが、やがて辛そうに口を開いた。

「私達は今、学校と同一化していて永遠に生かされている状態。つまり学校を殺すことは私達全員を殺すこと。あなたは、結果的に山雛高校の生徒約500人を殺すことになるの。でも、誰にそれが責められるの?」

 榊の拳銃を握る手が思わず震えた。500人の命を、これから背負って生きていかなければならないのか。

「それと…これは私の推測に過ぎないけど、全てが終わった時、きっと大規模な辻褄合わせが起きる。学校が意思を持って生徒を襲うなんて、決して起こってはいけない現象。だから、この世界はそれを無かったことにする。それが貴方にどんな影響を及ぼすかは分からないけど、これだけは覚えておいて。目に見えるもの、全てが…」

 そこで室岡の意識が途絶えた。今はもう、ただひたすら恍惚に浸った表情で大樹を見ている。だが、榊には室岡が言わんとしていることは分かっていた。
“目に見えるもの全てが真実ではない”

「もう、いいだろ」

 やけくそ気味の笑いが混じった吉永の声がした。室岡のいる位置の丁度反対側に、壁に磔にされている吉永の姿が確認出来た。吉永も、自分の意識を保つために必死で戦っていたのだろう。

「終業のチャイムの時間だ。この馬鹿げたクソ授業を早く終わらせてくれ」

 その言葉に榊は頷いた。もう、迷いは無い。榊は眼球に向かって力強く引き金を引く。まるで水風船が弾けるかのように、大樹の眼球が盛大に破裂した。同時に、部屋中に敷き詰められた生徒達の体から大量の血が噴出す。返り血を頭から浴びる榊。そして、学校全体を揺るがす大音響の咆哮。それは、学校が上げた悲鳴だった。
 学校が、まるで大震災のように大きく揺れていた。500人の生徒達から激しく噴き出す血液で地下室はあっという間に満たされ、まるでプールのようになっていた。榊は死体のように、血のプールの底へと沈んでいく。体のあちこちを負傷し、疲弊しきった榊にはもはや体力など残されていなかった。
 …全部、終わったんだよね。これで。みんな…ごめんなさい
 榊はプールの中で涙を流すと、静かに目を閉じて500人分の血液に身を預けた。学校が再び巨大な咆哮を上げる。その音程は、偶然にも休み時間や授業の合図に聞こえてくる「ビックベン」そのものであった。

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送