死者が奏でる呻き声の大合唱の中、屋上の柵から身を乗り出して濃霧に眼を凝らす緒方。後ろでは、恋人である吉田が心配そうに彼女を眺めていた。
「何か見えた?」
吉田の問いに、緒方はハァと溜息を吐きながら首を振るう。
「なーんにも。この霧、いつになったら晴れるの?もう6日目だよ」
「そんなの判るわけ無いよ。もう危ないから戻ろう、皆を待たせちゃ悪いだろ」
吉田は緒方の手を引き、屋上を後にした。
3−2教室。四角に並べられた机と椅子に生徒達が座っていた。遅れて入ってきた吉田と緒方の2人を見て、保田は一言「遅いぞ」と呟く。
「すいません、コイツが屋上に行きたいとか言うもんで…」
「本当は違うコトしてたんだろ?お兄さんには分かるよ。欲求、溜まるもんね」
金田が品の無いジョークを言うと、不良グループの成島と北原が声を上げて笑った。向かいに座っていた榊が大きく咳払いをする。
「全然面白くないです。それより吉永さん、あの…相楽さんは?」
教室の一番後方に位置する机に座っていた吉永が顔を上げる。
「今日も具合が悪いらしい。宿直室で布団に入ったままだ」
5日前のあの夜、廊下で血だらけの足を掻き毟る相楽を発見した吉永は、すぐに保健室へ行き、室岡から消毒液と包帯を受け取った。しかし、相楽は足を見せることを徹底的に拒んだ。それ以来、相楽は宿直室で閉じ篭り、皆の前に姿を現すことも少なくなっていた。
「隠れて青蛸でも食ってるんじゃないか?」
吉永の隣に座っていた池内が心配そうに尋ねる。あれ以来、予想されていた池内のゾンビ化が無かった為、金田達の間では少量の青蛸なら食しても問題が無いという結論になっていた。だが、危険なことには何ら変わりが無い。
「いや、相楽は4階の北側廊下に足を踏み入れてない。だが…4階以外にも青蛸がいる可能性はある。黒崎のオッサンや堤先生の青蛸はまだ見付かってない」
「その2人の先生、きっと何か別の生物になってるよ」
窓際に座っていた山崎がボソリと呟くと、思わず全員がハッとなった。
「タコの次だから、イカとか?」
緒方がすっとぼけた発言をすると、榊が再び大きな咳払いをした。
「そろそろ始めますよ。良いですね?与那嶺さん」
教室の前方、黒板の前に置かれた机には生徒会長の与那嶺が座っていた。日が経つに連れ、徐々にではあるが与那嶺の体調は回復していった。彼女曰く、「人間の適応能力って馬鹿に出来ない」だそうだ。しかし、彼女が無理をしていることは誰の目にも明らかであった。
「そうね、始めましょう。まずは、食料の貯蓄の件ですが…」
男子宿直室。相楽はベッドから降りると、頭を押さえながら廊下へと出た。咽喉が渇いて死にそうだった。職員トイレの横にある水道に着くと、おもむろに蛇口を捻る。勢いよく流れ出る水の柱に口を近付けようとした相楽は、何かに気付いてピタリと動きを止めた。 水など出ていなかった。蛇口から流れ出ているのは、またしても無数の蛆虫だったのだ。静かにあとずさる相楽は強烈な足の痛みを感じ、ズボンを捲くる。包帯を染めている赤い血液が、苦悶に満ちた佐藤の表情を作り出していた。
「起きてたのか?」
いつの間にか後方に立っていた吉永が相楽に声を掛ける。
「吉永か…。毎朝恒例のバカみたいな会議は終わったの?」
吉永が眉をひそめる。
「みんな、この先どうやって生きていくか真剣に考えているんだ」
「どうにもならないよ。みんな、無様に死んでいくだけだし。救助だって来ないと思う」
吉永は一瞬、相楽を殴り殺したくなる衝動に駆られ、勢いよく相楽のYシャツの襟元を掴んでしまったが、すぐに気持ちは引いていった。きっと、精神的に参っているだけなのだろうと無理矢理自分を納得させた。
「今の台詞、死んだ本山が聞いたら、どう思うだろうな」
そう言い残して吉永は相楽の襟を離し、水が出っ放しの蛇口をキュッと閉める。綺麗な水が、排水溝に向かって流れていった。
「じゃあ、次はアイツな」
校舎玄関口に積み重ねられた机のバリケードの前で、金田と池内の2人が必死にガラス戸を叩いている外のゾンビ達を傍観していた。池内は、目の前で一心不乱に爪を立てている長髪で小太りの男子生徒を見つめながら、記憶の糸を辿っていた。
「ヒント…模型同好会…」
金田が言うと、池内は笑いながら膝をポンと叩く。
「思い出した、1組の鏑木だ。学園祭で展示した戦艦大和のプラモを成島と北原がぶっ壊しちまって、色々と揉めたコトがあった」
「正解。んじゃ、次はお前が選んでいいぜ」
偶然、そこを通りかかった保田は思わず顔をしかめる。
「この遊びは歪んだ性格の所為か?」
保田の言葉に、金田が振り返った。
「よう、お前もやるか?結構楽しいぜ」
「悪いが、俺は他人に興味が無い。クラスメイトの名前だって半分も言えない」
池内はニヤリと笑い、積み上げられた机の隙間から見える細身でショートカットの女子生徒を指差した。
「でも、アイツぐらいは知ってるだろ。3年の中じゃあ、一番可愛い女だぜ」
保田は目を細め、女子生徒を凝視する。
「知らんな」
金田は信じられないといった表情で保田の顔を覗き込んだ。
「お前ってホント、宇宙人みたいなヤツだよな。今までどんな青春送ってきたんだよ」
やれやれ、と保田はここにきてから100回目ぐらいの溜息を吐き、その場を後にした。後ろからは「うわー、ソイツは反則だろ」という金田の驚嘆に満ちた声と池内の笑い声が聞こえた。まだまだ、ゲームを続ける気でいるようだ。
夕方。窓から流れ出た煙が、外の濃霧へと同化していく。不良グループに属する2年の成島と北原の2人は、校舎2階の廊下で残り1箱の煙草を消費していた。
「なぁ、いつまでここにいるつもりだよ?」
成島が自らのアフロ頭を撫でながら隣で座っている北原に声を掛ける。
「さあな。だが、リーダーが逝っちまったとはいえ、あの胸クソ悪い剣道バカの面見て生活すんのはもうウンザリだ。精神衛生上よくねえ」
北原が、男子トイレで吉永に股間を蹴られた1日目のことを思い出す。あれ以来、吉永の名前を聞くだけで股間の痛みが鮮明に甦るのであった。
「そういえば股間…大丈夫だったか?」
成島がボソリと尋ねる。今更かよ、という顔で北原が苦笑した。
「多分平気だ。その証拠に、さっきからションベンしたくて堪らねぇ」 「…さっさと行ってこいよ」
北原は「ああ」と頷き立ち上がると、短くなった煙草を窓から投げ捨てた。気だるそうに廊下を歩くが、男子トイレの前でピタリと足を止めた。霧が発生して臨時休校になったあの日、北原は仲間と共にバカ話をしながらここで煙草を吸っていた。そこへ吉永がズカズカと勝手に侵入してきて、掴みかかった自分の股間を力一杯蹴り飛ばしたのだ。 …畜生、胸クソ悪い。北原は踵を返し、3階へと続く階段を上っていった。ここで用を足すのは、どうにも気が進まなかった。 3階の男子トイレで用を足した後、北原は洗面台の前に立つ。何故だか、妙な違和感が付き纏っていた。しばらく考えた末に出た結論。それは、あまりにバカらしいことだった。いつもは、だらしなく開放されている個室の大便器の扉が3つとも全て閉められ、施錠されていたのだ。つまり偶然にも、自分の他に用を足している人間が3人いたということなのだ。
「食中毒にでもなったかぁ?」
トイレを出る際に、北原は笑いながら大声で言う。返答の代わりに、バイクのエンジンを掛ける時のような爆音が轟いた。一番入口に近い個室の扉がバタンと音を立てて開く。北原は思わず我が目を疑った。出てきたのは、青色のバケツを頭にスッポリと被った男だった。ボロボロになっている白衣には、うっすらと血が染まっている。エンジン音の正体は、手に握られていた両手ハンドル式の草刈機だった。本来ならば、校舎裏に生えている芝を刈る為のものであるが、先端で高速回転する円状のノコギリの歯は、明らかに北原に向けられていた。 明確な殺意を感じとった北原は慌ててトイレから出ようとするが、学ランの襟を後方から掴まれ、そのままトイレの床に叩き付けられた。背中を強打し、思うように呼吸が出来なかった。
「おい、だ、誰…か」
トイレの外に向かって助けを呼ぶが、呼吸困難の為に上手く声が出せない。更に不幸なことに、3階には誰1人として生徒はいなかった。バケツを被った白衣の男は、仰向けに倒れている北原の右肩を踏みつけて全体重をかけている。視界はバケツのせいで完全に遮られている筈だが、不思議なことに北原がどういう体勢で倒れているのかを把握しているようであった。苦悶の表情を浮かべている北原は必死で抵抗をするが、自分の右腕の関節に向かって回転ノコギリが近付いていくのを見た途端、あまりの恐怖に気を失ってしまった。
その頃、榊は相も変わらず女子宿直室の窓から外の景色を眺めている山崎を見ていた。本来ならば、与那嶺と室岡の2人しか泊まっていない保健室で寝泊りするのが道理というものであるが、何かを恐れる室岡が断固として入室を許さない為、女子宿直室にて榊、緒方、吉田らと生活を共にしているわけである。必要なこと以外は一切言葉を発しない山崎であったが、ここでの共同生活には意外にも協力的であった。調理の担当の時も仕事はするし、バリケードの増強の手伝いもしてくれる。 だが、どうしても榊は室岡の言葉が気になっていた。この少年が全ての現象を引き起こしている…できれば狂言であってほしいが、あの先輩は嘘など言わない人だ。 その時、榊の思考を停止させたのは、校内に響き渡る耳を劈くような悲鳴だった。
廊下に飛び出した榊は、急いで悲鳴の聞こえた上階へと向かう為に階段を駆け上る。
「3階だ!」
同じく悲鳴を聞きつけた保田が後方で叫ぶ。日本刀を持った吉永と池内の姿も見えた。3階に辿り着くと、廊下の床には赤い血がべっとりと付いていた。まるで、血塗れの死体を引きずった跡のようだ。そして、その血痕は途中で完全に消えていた。
「ここで何が…」
榊が青い顔で呟く。池内は、無意識の内にベルトに挟んでおいた自作の拳銃を抜いていた。
「おい、こっちだ」
吉永が男子トイレの前に立ち、全員に呼びかける。やはり、床には大量の血痕が付いていた。トイレに入ると、血痕は天井にまで飛び散る凄惨さであった。床には、血に塗れた人間の右腕のみが置いてある。3つある個室の扉は、全て開放されていた。
「この腕、外のゾンビのじゃないのか?」
吉永が言うと、池内は血塗れの右腕に近付く。そして、信じられないといった様子でその場から数歩後ずさった。
「北原だ…」
「何か鋭利な刃物で切られたみたいだな。少なくとも、調理室の包丁じゃない」
保田が右腕の切り口を見ながら、推理ドラマの探偵さながらの発言をする。
「鋭利な、刃物…」
池内が保田の言葉を復唱すると、その場にいた全員の視線が北原の右腕から吉永の持っている日本刀へと移動した。吉永も視線に気付き、思わずハッとなる。
「おい、待てよ、俺が殺したとでもいうのか?大体、殺す理由が無いだろうが」
「ごめんなさい、でも別に疑ってたワケじゃ…」
榊が弁解すると、吉永は深い溜息を吐く。しかし、池内の視線だけは執拗に吉永の日本刀へ向けられていた。
「校舎内部に入り込んだゾンビの仕業か?」
吉永が保田に問う。保田はトイレ全体に撒き散らされた血痕を見つめながら首を横に振るった。
「いや、バリケードは完璧な筈だ。それに犯人がゾンビなら殺された北原もゾンビなって歩き回っている筈だが、廊下に残されていたのは明らかに死体を引きずった跡だ」
「モノホンの殺人鬼ってワケね。ジェイソン・ボーヒーズじゃあるまいし」
いつの間にか吉永の後ろに立っていた相楽が嬉しそうに言った。久しぶりに聞いた声に驚き、保田が思わず振り向く。
「お前、具合は大丈夫なのか?」
相楽はその言葉は無視し、誰に向かってでもなく微笑を浮かべた。視線はあらぬ方向へ向けられている。
「殺人鬼が徘徊してるんじゃ、これからは校内も危険だな。お前らが馬鹿みたいに頑張っても、状況は良くなるどころか確実に悪化している。どうにもならないんだよ。全員揃って屋上から飛び降りるのが最善の策だと思うけどね」
「…相楽。お前は宿直室に戻ってろ」
吉永が怒りに満ちた声で言う。相楽は両手を挙げるわざとらしい仕草をすると、下手糞な口笛を吹きながらトイレを後にした。 |