1時限目 〜予兆〜

 ここ、山雛高校の校門前にある急勾配の坂道は、生徒達の間では“最後の関門”と言われているが、その呼び名は極めて的確であることを金田は今まさに実感していた。普段、この程度の坂道なら自転車で一気に駆け上ることが出来るものの、早朝から発生しているこの濃霧の中を、ペダルを全速力で漕いで突破する度胸は今の金田には無かった。
 しかし、ノンビリとしている暇も無かった。こんな日に限って、金田は寝坊をしてしまったのだ。これは皆勤賞狙いの金田にとっては少々マズいことである。卒業までもうすぐだというのに、遅刻なんかをやらかしてしまっては今までの努力が水の泡だ。金田はこんな時には足手まといにしかならない鉄の塊、自転車を手で押しながら、最後の関門を慎重に登り続けた。
 校門を抜けて自転車をいつもの定位置に止めると、金田は昇降口へと走った。今の時刻は8時27分。3分後のホームルームにはギリギリ間に合いそうだ。金田のクラス、3−2の教室では大多数の生徒が今朝からの霧の話題で持ちきりだった。

「前が見えねーからさぁ、チャリンコ乗るのも危なっかしーのなんの」

「ありゃ普通の霧じゃねーよ、なんつーか肌に絡みつく…みたいな」

 生徒たちのそんな雑談も、担任の松島が教室に入ってきてからは急に勢いを無くし、チャイムが鳴り始めると完全に途絶えてしまった。

「早く席付けよー」

 松島からやる気の無い声が発せられたと同時に、金田が教室に駆け込んできた。

「バカァ、早く席付けー」

 松島が言うと、金田の親友、佐藤がすぐさまそれをオウム返しのように真似をする。それを聞いた複数の生徒が笑い声を上げた。金田は佐藤の真後ろの席に着くとようやく落ち着いたのか、横顔を机の上にドスンと乗せて死んだように呆けていた。

「野球部引退してから大分ナマってんじゃないの?」

 佐藤が小馬鹿にした態度で話かけてきたので、金田は持っていた鞄で佐藤の丸刈りの頭をバコッと叩いた。

「みんなよく聞けー、今日は大事な話があるからな」

 松島が手をパンパンと叩く。

「あのな、みんなせっかく来てもらって悪いんだけど、今日は臨時休校だ」

 途端に教室から歓声が上り、クラスメイトは手を叩いて喜んだ。しかし金田はそれを聞いてこの上ない脱力感に襲われた。 ここまでの苦労は一体何だったのか。

「理由はみんなも知ってると思うけど今出てる霧だ」

「たかが霧で?んなバカな」

 金田が顔を上げ、松島に疑いの眼差しを向けながら意見した。松島は顎に手を当てて深刻そうな顔をしている。

「それがどうもよく分からん霧らしくてなー。これはちょっとやそっとで晴れるもんじゃ無いらしいんだわ。それもこの地区だけがこんな状態なんだよ。今もTVのニュースで凄い騒ぎなんだぞ。ま、お前らもさっさと帰って、絶対に家から出るなよ」

 金田はウンザリしたように再び机に顔を乗せた。そんな様子を見て佐藤はニヤニヤ笑っている。

「それじゃ解散。さっさと帰れよー」

 松島は言い終えると教室をスタスタと出て行ってしまった。生徒たちが喜びを隠せない様子で次々と教室を出て行く中、金田はまだ机についていた。数分後には、教室に残っているのは金田と佐藤、そして数人の女子だけになっていた。

「金田、帰ろーぜ」

 佐藤がウンザリして金田の学ランを引っ張った。

「家に帰っても、別にやることねーんだけど」

 金田がダルそうに言い返す。そんな2人に教室の隅で雑談を交わしていた女子の1人、与那嶺が話しかけてきた。 与那嶺はこの学校の生徒会長を務める、誰がどう見ても優等生という感じの凛とした少女である。

「ねぇ2人とも、大林君と池内君見なかった?」

 大林と池内は町内でも有名な不良グループに属していた。特に大林はそのリーダー的存在でもある。 

「あの2人なら朝からいなかったよーな気がすっけど」
 
佐藤が答える。

「そう、ありがと」

「あいつらに構うのは、もうやめた方がいいぜ」

 金田が珍しく真顔で与那嶺に言った。

「気にいらないことがあると何でも暴力で解決する連中だからな。特に女子は何されるかわかんねーし」

「ご忠告どうも」

 与那嶺はぎこちなく微笑むと、再び隅に戻っていき数人の女子と雑談を交わし始めた。

「ハァ、俺そろそろ帰るわ」

 佐藤が痺れを切らして言った。

「なんかこの霧、だんだん濃くなってねーか?早く帰らねーとヤバイ気がするよ」

「ちょっと待てよ、もう少し休んでからでいーだろ」

 金田が往生際悪く言うと、佐藤は呆れながらも渋々椅子に座る。

「あ、佐藤さぁ今日発売の少年チャンプ買った?」

「鞄に入ってる」

 金田は佐藤の鞄を勝手に開けて漫画を取り出す。

「これ読んでから帰るわ」
 
 佐藤はハイハイ、と相槌を打つと、教室の窓から見える外の景色を眺めた。まるで窓ガラスに白の画用紙を貼り付けたかのような壮絶な景色だった。

 

 その頃、3−3の吉永は下校する生徒たちを尻目に校舎の真後ろにある道場へと歩いていた。その足取りは重い。道場入り口にある下駄箱に靴を入れると、近くに立っていた教師の黒崎が話しかけてきた。

「今日みたいな日に付き合ってもらって悪いな」

 吉永は自分の心の中を読まれたのかと思い、少し動揺する。

「いや、後輩のためなら何だってしますよ、あはは」

 吉永が適当に返すと、黒崎も満面の笑みで答えた。もうすぐ大会が近いということもあって、黒崎は校長に直談判をし、1時間程度なら練習をしても構わないという特別許可を貰っていた。もっとも、引退した吉永には関係の無い話なのであったが、臨時休校という年に1回あるかないかのラッキーイベントに喜び勇んで教室を飛び出た矢先に、黒崎に呼び止められ、後輩に稽古をつけてやってほしいと依頼をされてしまったのだから、これを不運と呼ばずして何と呼ぼうか。
 道場の更衣室に入ると既に後輩の何人かは来ていたが、同学年の部員が1人しか見当たらなかった。恐らく、黒崎に確保されることなく校舎を出ることが出来たのか、何かしらの用事をつけて丁重にお断りしたのであろう。そうだ、素直に断れば良かったのだ。吉永は心の中で自身のお人好しさを呪った。憂鬱な気分を紛らわそうと、吉永は部室の隅で本を読んでいる3−1の相楽に話しかけた。

「相楽、他の3年はどうした?」

 相楽は本を読みながら「帰ったよ」と一言。

「で、お前も捕まったのか?」

 吉永が聞くと、相楽は本を閉じて項垂れる。

「でなきゃ来ないよ、こんな日に」

「そう言わずに一緒に頑張りましょうよ、先輩」

 そんな2人の間を割って入るように声をかけたのは、1年の本山であった。

「今日はよろしくお願いしますね!」

 やる気満々といった様子の後輩に、吉永は大きく溜め息を吐いた。

 

 完全下校時刻である午前10時を少し過ぎた頃、3−2の教室では相変わらず与那嶺を含む女子数人が椅子に座り、何かの話題で盛り上がっていた。生徒会長なのに下校時刻は守らないのだろうかという素朴な疑問をよそに、佐藤は未だに漫画を読み続けている金田に視線を移した。

「そろそろ帰らねーと先生が見回りに来るぜ」

 言い終えた瞬間、教室の入り口の扉を開けて松島が顔を出した。

「何だお前ら、まだ居たのか」

 松島は教室に残っている生徒たちを呆れた目で見つめる。

「あ、私たちは今から帰りますので」

 与那嶺が松島に言うと、一緒に話していた友人の後藤、室岡も鞄を持って立ち上がる。

「お前らはもうすぐ卒業だからなぁ。学校にいつまでも居たいって気持ちも分からんことはないが、今日みたいな日は早く帰った方がいいぞ。こんな日に残っているのは、野球部と剣道部くらいなもんさ」

 松島が大して怒った様子もなく言い終えると、再び廊下をスタスタと歩き始める。すると今度は教室の後ろの扉を開けて顔を出す。

「あ、そーそー、お前ら携帯電話持ってるだろ?」

 突然尋ねられて、一同は思わず体を硬直させた。学校に携帯電話を持ってくることは校則違反とされていたからだ。もっとも、そんな校則をバカ正直に守っている生徒など皆無であることは、多くの教師が承知しているのではあるが。

「ん?ああそうか、別に怒んないって。金田お前ケータイ見せてみろ」

 金田はイライラしながらも、ズボンのポケットから折りたたみ式の携帯電話を取り出して松島に投げた。松島は慌ててそれを受け取る。

「投げることないだろー金田ぁ。ええと、あ?やっぱお前のもか」

「何が?」

 金田が尋ねると、松島は液晶ディスプレイを生徒たちに向けながら言う。

「ほら、圏外。先生のケータイも圏外なんだよなぁ」

 松島は金田の携帯電話を投げ返し、金田がそれを片手で受け取る。与那嶺や後藤も自分の鞄から携帯電話を取り出して確かめている。

「本当…でも先生、どうしてなんですか?」

 与那嶺が聞くと、松島は唸りながら答える。

「うーん…今な、職員室にあるテレビもどういうわけか全く映らないんだわ。まさかとは思うが…」

 松島がチラリと窓の外を向く。 

「そんな霧、聞いたことないっスよ」

 佐藤が馬鹿にしたような口調で言うが、金田は黙ったままだった。

「俺だってないさ。ま、気をつけて帰れよな。何かTV局の車もこの街に来てるらしいけど、インタビューなんか絶対に受けるなよ」

 松島はそう言い残すと、教室を後にした。

 

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